スタ さ ぷ。 5時スタ

スター誕生!

スタ さ ぷ

』(スターたんじょう! )は、1971年10月3日から1983年9月25日の12年間に亘って放送された、のである。 略称は「 スタ誕」(スタたん)。 全619回。 途中、1982年10月24日放送分でタイトルを『 新・スター誕生! 』と改め、同時にからへと移行したが、1983年4月3日からは正式タイトルを『 スター誕生! ~全国選抜歌の選手権~』と改めた(ステレオ放送についてはそのまま継続)。 放送時間 [ ] 1982年3月28日までは毎週日曜 11:00 - 11:55 に放送されていたが、同年4月4日以降は『』の放送時間繰り上げによって10分縮小し、11:45までの放送となった。 また、一部のネット局では放送日時が異なっていた。 1982年までは、年末年始にも平常通りの放送を行っていた。 1978年からは、『』放送時には休止となった。 概要 [ ] 番組の企画者は審査員の一人でもあるで、番組名の名付け親はのである。 明日のスターを夢見る人のための正統派のオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。 同じネット局の『』(『スタ誕』より先に番組開始)や、兄弟番組である日本テレビ『』と共にまさに実力勝負が要求された。 視聴率 [ ] 初回の視聴率は4. 1978年5月7日放送分では番組史上最高の28. 出演者 [ ] 司会者 [ ]• 初代:(1971年10月3日 - 1980年4月6日[第443回]) - 当時で人気絶頂期だった萩本にとって、本格的にテレビでのソロ活動、かつ司会初挑戦だった。 萩本は司会のオファーを受けると「(一人で)司会なんてしたことないの」と語っている。 2代目:、(1980年4月13日 - 1981年4月5日) - 谷は出演当時「岩谷隆広」名義だった。 タモリは兄弟番組である『お笑いスター誕生!! 』にも審査員として出演していた。 なお、タモリは後年の同窓会(後述)で「ほとんどつなぎの様なものでしたねぇ」と語っている。 3代目:・(1981年4月12日 - 1982年1月3日) - 石野は『スタ誕』デビュー組の歌手。 結婚による芸能界一時引退のために、1981年9月6日放送分をもって降板した。 4代目:(1982年1月10日 - 1983年9月25日) - 当初はがと共に担当し、後に単独で務めた。 は1982年10月24日放送分から出演。 審査員 [ ] 萩本、谷・タモリ、坂本(・石野)時代 [ ]• (松田敏江)• 当初、松田・阿久・中村はレギュラーで座り、残りの2名は外部の、の、「」「」の編集記者が交互に登場していた。 途中から都倉、三木が加入し、審査もより厳正になった。 なお、中村は一時期降板して森田に交代したが、三木の完全な降板とともに復帰した。 きよし単独時代 [ ] 司会のきよしは以下の人物を「評議員」と呼んでいた。 やすきよ時代 [ ] 最末期での担当者。 最終回まで出演。 その他の出演者 [ ]• と東京ユニオン()• とゲイスターズ(バンド演奏)• (師)• 井上れい子(萩本時代のアシスタント。 萩本と同時期に降板)• 萩本時代最初期のアシスタント)• (出身のデュオ。 井上と共に萩本時代のアシスタントを務めた)• (リンリン・ランランと同時期に、デビューコーナーに正式に出演する前に、少しの間アシスタントを務め、合格者の首にメダルをかけていた)• (出演当時は「クロベエ」名義。 萩本と同時期に降板)• 雪吹優二郎(ふぶき ゆうじろう…出演当時は「ユージロー」名義。 萩本と同時期に降板)• シンちゃん、カメラ、風呂タロウ• 志摩のぶ子(後に芸名を「志摩のぶこ」に改名。 (坂本時代-やすきよ時代前期。 当初は番組アシスタントを務めた女の子4人組「くれよん」の一員として出演。 出口裕子、郡山美波)• (坂本時代)• 若松愛子(きよし単独時代初期にきよしとのコンビで司会を務めた一般の老人女性。 元と言っていた)• (きよし単独時代、ゲームコーナー「仲よしきよし」に出演。 当時に在学中で、所属のタレント。 後にアナウンサー)• (日本テレビ音楽学院(現・タレントコース。 後述参照)のレッスン生の選抜メンバー)• (やすきよ時代のナレーション) 芸能史における位置付け [ ] この番組でデビューしたタレントの活躍は、芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。 テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた・がその絶対的な地位を失ったのは、 、、が力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの番組だった。 ただ、前身番組である『』、『』ではナベプロと蜜月関係にあり、直前の前身番組『』の出身タレントであり、ナベプロ所属のザ・シュークリームがスタ誕最初期のアシスタントを務めた。 また、初期のゲストもナベプロ所属のタレント達が出演していた。 で開催された予選にも当時ナベプロ所属だったがゲストとして出演した。 第6回決戦大会頃までは番組に関わっていた。 これに対抗するため、ナベプロは1973年から独自に制作したオーディション番組『』をNETテレビ(現・)で放送していた。 ところが『あなOK』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビがナベプロの歌手も出演していた『』を放送していたため、ナベプロは『歌ベス』からの撤退を決定。 しかもナベプロの社長が日本テレビのに「ウチのタレントが欲しいなら『歌ベス』の放送日を変えたら?」と発言 したことから 、テレビの芸能史上に残る日本テレビとナベプロの間での戦争が起こった。 しかし『あなOK』は視聴率に恵まれる事なく、結果は失敗に終わった。 前述のホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーなど新興プロダクションへの当番組からのタレントの優先供給も、この時に井原が、ナベプロ包囲網を敷くために各プロダクションへ協力を要請したその見返りとして実現したものであった。 その後、井原は1980年に日本テレビを退社し、ナベプロは第38回決戦大会の前後から番組には再び関わりはじめ、最終的に『スタ誕』から、をデビューさせた。 番組終了後『スタ誕』復活を望む声があった。 しかし、中三トリオを仕掛けた(ホリプロ創業者、現・最高顧問)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから、昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。 今は高い金を出して、並んででも美味しいものを求める時代だから、もう最大公約数を求めるテレビは、スターを作る番組は作れないだろう。 」と語っていた。 ルール [ ] 「スタ誕」の予選会会場に使用されていたよみうりホール(読売会館7階) 予選会 [ ] 出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、・の店が入っていたの7階ので予選会を開いていた。 このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。 なお、よみうりホールが他興行やメンテナンスで使用できない場合は、千代田区四番町の日本テレビ四番町ビル(現存し、などが入居する)で、地方で公開収録を実施する場合は、放送している系列局から告知を出していた。 応募者は、自ら持参した歌本()を横森良造に提出し、横森のの伴奏で歌う。 レギュラーの審査員は直接出向かず、テレビ予選の歌唱楽曲のである高見弘や番組のプロデューサーなどが審査をしていた。 一次審査は、応募者は楽曲から好きな部分を四選び歌う。 歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。 この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。 二次審査では30人に絞られていく。 どちらも失格者はその場で退場となる。 最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。 そして、最終的にテレビ予選への進出者が決定する。 その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。 詳しくは次の「テレビ予選と審査方法」の欄を参照。 テレビ予選と審査方法 [ ] 司会者の変遷により異なっていた。 アシスタントの紹介ナレーションと共に予選通過者が入場、電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。 結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁のがあるセットが映される。 舞台の(左側)に位置し、7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。 会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。 得点は会場500点、プロは1人につき100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。 その点数は7人時250点、5人時は300点。 規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。 最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞ!」と言い、会場から手元のスイッチで。 その際にはが鳴る。 まれに会場の審査段階で合格者が出ることもある。 (大阪大会=民会館:テレビ放送日1977年2月13日)は、会場からの得点だけで合格ラインを超える280点を記録し、阿久悠らプロ審査員を驚かせた。 石野は最終得点が530点(7人のプロ全員が合格と認めたため250点加算)になり1000点の過半数を独占した。 ちなみに番組史上最高得点はの573点(秋田大会=:テレビ放送日1972年8月6日)。 この得点審査中、合格者が出た場合は外周の赤い豆電球がに回転する。 続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!どうぞ!」と言い、ドラムロールの音が鳴り続けながら(その際にはを叩いて合図する)プロの点数が加算される。 数字が回転するのと同時に豆電球が回転。 会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球は回転し続けたままである。 失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。 合格の場合、豆電球は回転したままで、数字はと同じ原理で赤に変わり、目の前のが回転して合格を知らせる。 一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ(通常の決戦大会は行われなかった)。 優勝者はデビューはしなかった。 他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にも揚がらなかった。 その中の一人に、後に『』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子がいた。 舞台の中央(バンドボックス)左側に式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示()を出していた。 合格者は、日本テレビ音楽学院(現・タレントコース)の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、紺色のが羽織られる。 最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。 また、挑戦者全員には、スポンサーからの参加賞がプレゼントされる。 番組後年(きよし単独時代後期から)、1分スポンサーが縮小した為、毎週固定スポンサーの賞品となった。 全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、無しよ!」とポーズをとって締めくくった。 これも萩本ののひとつになった。 坂本・石野時代 [ ] テレビ予選は1回8人まで。 二部構成で、パート1は8人が形式で歌い、100人の観客が審査する。 持ち点は各自1点。 点数の高い者がパート2へ進む。 その人数は当初は5人、途中から4人に削減。 パート2はで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。 歌う曲目はパート1と異なる。 結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。 5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。 そしてファンファーレが流れる中、審査員のが描かれたランプが点灯して点数が表示される。 持ち点は審査員1人につき60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。 はこの時代、予選3回目の挑戦で合格 (関東大会=後楽園ホール。 テレビ放送日1981年8月2日)。 点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田敏江:63、中村泰士:99の合計392点。 この形式での史上最高得点である。 中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。 合格者には中規模のが授与された。 初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。 同代から「スター誕生! 」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。 司会者のマイクもマイクキャップ付きのマイクになり、坂本は灰色、石野は赤色のマイクキャップだった(坂本は前期の番組前半はネクタイピンマイクを装着して進行していた)。 その後、4代目のきよしは灰色、やすしは茶色のマイクキャップだった(場合によっては変則的にマイクキャップの色も異なった回もある)。 なお、坂本九はナベプロの影響の強い のタレントであり、彼を司会に起用したことについて日本テレビがナベプロとの和解を模索したと評されている。 エンディングテーマは坂本の曲「」で、坂本本人が歌っていた。 また、石野は同番組の第20回決戦大会でスカウトされ、歌手デビューから3年後の司会起用であった。 一人1曲歌う(スタンドマイクの前に立って。 決戦大会ではハンドマイク)。 審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。 ロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。 決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。 やすきよ時代 [ ] 前期(1982年10月24日-12月12日) [ ] テレビ予選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。 審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進出となった。 しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。 詳しくは決戦大会の項目を参照。 後期(1983年1月23日-最終回) [ ] 正式タイトルを「スター誕生! ~全国選抜歌の選手権~」と改めた。 ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。 一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。 5人の審査員の合計が350点(持ち点は1人につき70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。 そして7週連続勝ち抜くとグランド GC に認定。 天井からが舞い(とは入っていなかった)、審査員からとゴールデンが授与された。 この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。 それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。 GC達成の瞬間、「おめでとう!! グランドチャンピオン!! 」の字幕スーパーが大きく出た。 この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。 決戦大会 [ ] 1クール(3か月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のを集めて行われた。 通常通り1人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。 なお萩本時代のみ、萩本が所属しているが参加し、毎回珍妙な質問を行っていた。 坂本時代までは、全ての出場者が歌い終わった後、バンドの左側に決戦大会専用の「お立ち台」が設けられ、結果発表となった。 出場者が一人ずつお立ち台に出て、それぞれがスカウトマンに対ししてくれるようにアピールした。 一生懸命歌いました。 よろしくお願いいたします!」というフレーズは、多くの挑戦者が口にした。 スカウトマンの中には、元のや元のヴォーカルの清水道夫、でのなどがいた。 司会者の「どうぞー!」の合図と、ドラムロールが鳴り、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたを揚げた。 特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」という台詞もよく出た。 プラカードが揚がった瞬間にファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたー!おめでとうございまーす!」と言っていた。 規則では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、あるいは失格となった(事務所のみ、あるいはレコード会社のみ等は組み合わせに時間がかかり調整した)。 もちろん1社からも指名されずに涙を呑んだ挑戦者もいた。 そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。 その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。 12年間の最高指名社数は、の25社。 その他では、に対して20社、-18社、-18社、-17社、-16社、-14社、-13社、-11社、-8社、-8社、-4社、-3社、-3社、等。 最少指名社数1社の合格者には、のみにスカウトされた 、のみにスカウトされた などがいる。 現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。 森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。 音声のみのテープと写真が存在するだけである。 決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。 きよし単独時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。 結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名列挙)以上x(数字)社が貴方をスカウトしました。 」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。 その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。 ファンファーレが鳴り、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い(この時期から紙吹雪の演出を始める)、トロフィーが授与された。 逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。 この方式でスカウトされたのは、、、松本明子である。 やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日・26日の2週に亘って行われた。 事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。 パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。 スカウトされたらきよし単独時代同様、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い、トロフィーが授与された。 この方式でスカウトされたのは、岡田有希子(当時は「佐藤佳代」。 この回のみTVのOAはなし)、、である。 この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードが挙がってもデビュー出来なかった合格者、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった挑戦者は数多くいる。 10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。 逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。 例えば、から女子としてデビューした、決戦大会当日 44回 は指名しなかったより翌年原宿でスカウトされデビューした、後にでグランプリを獲得しデビューした本田美緒 35回 など。 その他のコーナー [ ] 挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた。 特に萩本司会時代が知られ、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。 またリンリン・ランランが加入後は、「振りまねコーナー」といって、リンリン・ランランやのヒットソングの振りまねをやる事が有った。 このコーナーから、(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、らがブレイクし、いずれも萩本にスカウトされた。 コーナー冒頭でアシスタントの井上れい子が「審査の集計が出るまで、欽ちゃんと一緒に遊びましょうね」と言っていた。 さらに萩本はこのコーナーの企画を手掛けていた。 さらにきよし単独時代にも「仲よしきよし」のコーナーがあった。 決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者やアシスタントの井上れい子の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。 合格者の大半は、とデビューの予定月日を告知する。 その芸名は時によっては一般公募する事もあったが、せっかく公募しても採用されずに、本名が芸名になる事もしばしばあった(桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子など)。 また、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。 デビュー曲発売一週目前から四週にわたりタイトルと歌手名のを客席に設けステージセットとして使い、新人歌手を大々的にアピールした。 最終週はメインステージに移り、生バンドの前で歌を披露した。 後年は歌手サイドの意向により様々な演出があった。 公開録画と収録場所 [ ] 原則として毎月2回、内にあるで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。 後楽園ホールがやプロなどの他興行や、で使用できない場合は、など、郊外の公会堂を使用していた。 また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。 現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。 の会場からも公録が行われた。 また、きよし単独時代は形式で1度だけのキャンプ場でロケを行い放送した。 また、飾りの中には黄色のパネルが埋め込まれ、このパネルには提供スポンサー名が印刷されていた。 飾りの下には大があり、挑戦者がと共にスタンドマイクの前に駆け下りてくる。 1979年 - 80年にはギター系の下にが入ることもあった。 また、1970年代後半にはドラムスの下にラテンが入った(配列は後楽園ホールでの収録の場合を基準にしている。 地方の公会堂では配列が逆になっていた)。 舞台の上手(右側)には、番組出身者の写真が飾られていた。 ちなみに、野外での収録(前述のハワイ大会や沖縄海洋博等)の際には階段とビッグバンドのない簡素なセットになり 、バンドは別の場所で演奏していた。 電光掲示板のあるセットは、決戦大会時にはボードが伏せられ、挑戦者の番号とネームプレートとパトライトのある透明な(時期により色付き)ボックスとが撤去された。 ボードは、7人時には上段から「第」「xx」「回」「決」「戦」「大」「会」、5人時には「第xx回」「決」「戦」「大」「会」と記されていた。 坂本時代 ビッグバンドは中央から左寄りのピット内に収められ、右側に階段がある。 下手・上手と階段上部には付きの衝立(階段上部はやや大型。 上手には提供スポンサー名が掲げられている)。 背景は通常は青系である。 下手・上手にはカーテン付きの衝立。 その上に提供スポンサー名が掲げられている。 背景は通常は青系であるが、結果発表の時に巨大なパネルが登場する(決戦大会時にはセットの一部になり、結果を見て「合格」なら星型のランプが点滅する)。 また、背景を隠すため、タイトルロゴが印刷された左右両開きのスライド式の板もある。 やすきよ時代 中央の階段がなくなり、オーケストラピットが中央に集中し、その代わりに左右に階段が設けられた。 また、『スター誕生! 』のロゴの星の部分に電飾が埋められた。 提供スポンサーは前期は1社ずつ両方のL型の板にパネルで張られ、後期は右側に集約されていた。 審査員席 萩本時代の7人時の途中までと坂本時代、きよし単独時代の放送時間短縮後は客席の最前列で(特設のテーブルがあった)、それ以外は舞台の上手にて審査していた。 出場者 [ ] 主な合格者 [ ] (合格した時期が早い順番から)• 沼尾健司 - 番組初(第1回放送)の合格者。 - デビュー曲「」。 第1回決戦大会最優秀賞、番組からのデビュー第1号。 長田(現・おさだ)たいじ - デビュー曲「女の未練」• 柴葉子 - デビュー曲「白い羽根」。 第1回決戦大会合格者。 三橋ひろ子(みつはし・ひろこ) - デビュー曲「私の花言葉」。 デビュー第2号。 コスモス - デビュー曲「若草物語」。 立井雅子と田村悦子による、スタ誕出身グループ第1号。 藤本哲也 - デビュー曲「冬の旅」• 緑川真 - デビュー曲「高校時代」• 鷲と鷹 - デビュー曲「さすらい渡り鳥」。 小林茂と渋谷弘によるソフトロック系デュオグループ。 南陽子 - デビュー曲「赤い花まつり」。 堺淳子 - デビュー曲「祭りの思い出」• 最上由紀子(さいじょう・ゆきこ) - デビュー曲「初恋」。 池田正臣 - デビュー曲「われしのぶ」• - デビュー曲「」。 決戦大会で番組史上最高の25社からスカウトを受けた。 - デビュー曲「十七歳の行進曲」• - デビュー曲「」• シルビア・リー - デビュー曲「霧のエトランゼ」。 スタ誕出身第1号。 松下恵子 - デビュー曲「花嫁の父」• - デビュー曲「満員電車」• 麿こうじ - デビュー曲「悲しみの湖」• - デビュー曲「忍ぶ雨」。 1973年3月の第6回決戦大会で最優秀賞を受賞、同年7月25日に15歳でデビュー。 おがた愛 - デビュー曲「別れのブラックコーヒー」• - デビュー曲「イルカにのった少年」• 石江理世 - デビュー曲「目かくし」• - デビュー曲「」• しのづかまゆみ(現・) - デビュー曲「パパはもうれつ」• - デビュー曲「君でいっぱい」• 米永透 - デビュー曲「あれから」• - デビュー曲「わたしのシュガー・ボーイ」• - デビュー曲「純愛」• - デビュー曲「人魚の夏」。 梶たか子 - デビュー曲「京都初雪」• 渡辺秀吉 - デビュー曲「ぼくはもう一度恋をする」• 小川真代(おがわ・まさよ) - デビュー曲「それでも私は」• - デビュー曲「」• - デビュー曲「好奇心」。 - デビュー曲「若草のデート」。 - デビュー曲「」• 横本メイ- デビュー曲「すてきな貴方」。 - デビュー曲「少女自身」• - デビュー曲「はじめてのワルツ」• 朝田のぼる - デビュー曲「白いスカーフ」• - デビュー曲「」• (・) - デビュー曲「」• - デビュー曲「人見知り」• - デビュー曲「花の女子高数え歌」。 ものえ和恵 - デビュー曲「帰っちまえ! - デビュー曲「白い猫おいで」• - デビュー曲「ダウン・タウン・ベイビー」。 後に愛称のピーコを芸名に『』()のレポーターとしても活躍した。 - デビュー曲「朝日に向って」• - デビュー曲「」。 審査発表で会場の一般審査員の得点だけで合格点に達した(最終得点は530点)、デビューから3年後の1981年には同番組の司会をと共に務めた。 - デビュー曲「経験シーズン」。 同じくスター誕生!出身でデビュー同期の岩城徳栄と並ぶ元祖。 豊田清 - デビュー曲「青春PART1」。 後にに転向。 - デビュー曲「パステル・ラヴ」。 二度目の決戦大会で合格。 北野玲子 - デビュー曲「初恋景色」。 元はのバスガイドだった。 元は()出身。 - デビュー曲「ブルーロマンス薬局(ファーマシー)」。 菅沢恵子 - デビュー曲「哀しくて哀しくて」• - デビュー曲「ルフラン」。 鯨井ゆかり - デビュー曲「街はおしゃべり」。 二度目の決戦大会で合格。 デビュー当初はOPAというラテン音楽グループと共に活動。 - デビュー曲「スタア」• - デビュー曲「No. 北原裕 - デビュー曲「愛は今から」• - デビュー曲「花吹雪」。 堤久美子 - デビュー曲「浜辺のマドリガル」• 宮原巻由子 - デビュー曲「花明り」。 - デビュー曲「星屑海岸」• - デビュー曲「ちょっと好奇心」。 元は内のOLだった。 松本泰司 - デビュー曲「BAD BOY ON STAGE」。 二度決戦大会に挑戦するもプラカードは一本もあがらなかったが、二度目の挑戦の時には特別に優秀ということで「何らかの形でデビューさせますからね」と阿久がコメント。 - デビュー曲「」。 - デビュー曲「未経験」• - デビュー曲「ブルー・エトランゼ」。 田中さとみ - デビュー曲「私の神様」• - デビュー曲「」。 テレビ予選3回目の挑戦で合格。 - デビュー曲「キラリ・涙」• - デビュー曲「バ・ケー・ショ・ン」。 - デビュー曲「メモワール」• - デビュー曲「スター誕生(作詞作曲・谷村新司)」出身。 - デビュー曲「(オス・メス・キス)」• - デビュー曲「デリケートに好きして」。 同時に同曲とカップリング「パジャマのままで」を主題歌としたアニメ『』で主演声優としてもデビュー。 - デビュー曲「ひとりぼっちは嫌い」。 (当時は本名の「佐藤佳代」) - デビュー曲「」• - デビュー曲「横浜ジゴロ」。 - デビュー曲「Teenage Blue」• 愛田悦子 - デビュー曲「まわり道」• - デビュー曲「初恋しぐれ町」• - デビュー曲「東京ジンタ」• 鈴木ゆかり - デビュー曲「新プロ野球小唄 中日編」• - 番組を通してのソロデビューはせず。 後にの一員として「恋の爆弾ストリート」でデビューした。 中尾浩美 合格は15回決戦大会 決戦大会でスカウトされなかった出場者 [ ]• (この回の合格者に山口百恵がいた。 その山口百恵とは後述の『欽ちゃん一座正月公演』で顔を合わせた)• 池田広子 ホリプロ所属 予選合格者には名を連ねる。 中真理子(この回の合格者に梶たか子(最優秀賞)、片平なぎさ、小林美樹がいた。 その後『全日本歌謡選手権』に挑戦、1週落ちるものの審査員の裁量で再挑戦の機会が与えられ、10週連続で勝ち抜いた)後に、ゲスト出演。 (この回の合格者に岩崎宏美(最優秀賞)、黒木真由美がいた)• (漫画家)• トシ・カプチーノ(内田とトシ・カプチーノが出場した回の最優秀賞は井上望)• 本田美緒 この回の合格者は小泉今日子、中野美紀 など その後、YAMAHA ポプコンでグランプリ デビュー。 世界歌謡祭にも出場。 (二度決戦大会に進出もスカウトされず。 最初の挑戦で審査員奨励賞を受賞。 その時の最優秀賞は河上幸恵)• 村越裕子(むらこし・やすこ)(佐久間(二度目の挑戦)と村越が出場した回の最優秀賞は中森明菜)• (本田と徳永が出場した回の合格者に松本明子がいた。 なお本田・徳永・松本は同じ回のテレビ予選にも出場し揃って合格した)• (テレビ予選で敗退、この時のテレビ予選は全員失格)• (テレビ予選で敗退)• (テレビ予選で敗退、この時のテレビ予選は全員失格)• テレビ予選で、芸能プロダクションの市村義文社長にスカウトされデビュー) その他 [ ]• は番組に何度も応募したが、別のオーディションを受けチャンピオンになり女優デビューした後に書類選考を通過した。 は番組に応募したが、返ってきたのは公開録画の観覧案内だったという。 は番組に応募したが、一次審査で不合格だった。 は番組に応募したが、予選会で不合格だった。 最終審査まで進んだかは不明。 ちなみに松本明子とは偶然にもデビューが同じ日(1983年5月21日)だった(音楽雑誌「シンプジャーナル」の記事に掲載されていた)。 は番組に応募するも、書類選考の段階で選外となった。 は14歳の時(1972年)に応募し予選会で「真似をするな個性を出せ」という前説に考え抜いた末、イントロでバック転をするという奇行に出たが歌い出しに間に合わず失格。 は1981年5月放送回で、バンド、ラウンドアバウトとしてオープニングアクトで登場。 これがテレビ初出演となる。 放送回のエピソード [ ] この項目ではを扱っています。 閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 100回記念 [ ]• 1973年8月26日放送は通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が一堂に登場(森昌子、桜田淳子、山口百恵、三橋ひろ子、南陽子、シルビア・リー、最上由紀子、藤正樹、松下恵子、菅原昭子)。 同時に森・桜田・山口の「」が確立した。 200回記念 [ ]• 200回を記念し、大会が開催された。 放映は1975年5月11日・18日(第189回・190回)。 この大会で横本メイが合格、横本は同年8月放映の「第14回決戦大会」(日本で開催)でも合格、同時に「審査員特別賞」も受賞した。 1975年7月27日放送は100回記念の時と同様に、通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が登場した。 300回記念 [ ]• 1977年4月17日・24日放送。 200回記念以来2年振りにハワイ大会が開催された。 7周年記念 [ ]• 1978年10月1日と8日両放送分は、『7周年記念卒業生全員集合』と銘打ち、番組出身者27組が勢揃いした。 出身者は当番組で行われたゲームなどを行った。 ラストは出身者を代表し、森昌子・桜田淳子・山口百恵の元「花の中三トリオ」が、同席した審査員やバンドの東京ユニオンなどに感謝の言葉を述べ、最後は『』のを歌って締めくくった。 番組では、7周年の間の出場者に関するデータを発表した。 一次審査合格率47パーセント、オーディション到達率30パーセント、出演率1パーセント、最終合格率0. 0209パーセント。 応募総数 1,277,500通 (出場)通知を出した人 604,800人 オーディションを受けた人 209,068人 テレビに出た人 2420組 合格した人 267組 デビューした人 56組 (今日の)出演者 27組 400回記念 [ ]• 1979年6月3日放送は通常回の後楽園ホールを飛び出し、からの放送。 記念回では初めて通常の審査と結果発表が行われなかった。 『スタ誕』出身者と、審査員が阿久悠監督・森田公一コーチ率いる紅軍「 レッドスターズ」と、都倉俊一監督・中村泰士コーチ率いる白軍「 ホワイトスターズ」に分れてソフトボール大会をした。 また審判を萩本が務めた。 実況(兼ナレーター)は、当時局アナのが担当した。 参加した番組出身者の背番号は、デビューした順番が付けられた(例:桜田淳子は7、山口百恵は10番、岩崎宏美は35番、など)。 また当時レギュラーだった黒部幸英は01番、雪吹優次郎は02番と変則番号で参加した。 なお阿久監督は90番、都倉監督は80番だった(当時は80人もデビューしていなかった)。 ユニフォームは、 レッドは白地に黒のストライプ、 ホワイトは肌色無地で、胸マークは双方とも番組タイトルだった。 また女性歌手用は双方ともホットパンツ状で、上半身部は レッドは赤のラグランスリーブ付き、 ホワイトは襟付きであり、更に頭にはサンバイザーを付けていた(男性は野球帽)。 フェンスには番組スポンサー(これは後楽園ホールでのバック装飾も同じ)のほかに当時のネット局のロゴ(例えばよみうりテレビは現行のytv'ロゴではなかった)が描かれていた。 勝負は、4-1で ホワイトの勝ち。 最高殊勲選手賞は、デビュー間もない ホワイトの井上望(背番号60)が受賞した(理由は「5回完投したから」)。 他に敢闘賞は塁審の横森良造(セーフとアウトが混ざったジェスチャーをして笑わせたから)。 ファインプレイ賞はホワイトの雪吹優次郎(三塁手として2度もファインプレー)。 珍プレイ賞は レッドの岩崎宏美(自分の出番に気づかずベンチに座っていたから)。 応援賞は ホワイトの藤正樹、清水由貴子、(なぜか選手として出番がなかったから)。 なお ホワイトの都倉監督と中村コーチは、勝負には勝ったものの「メンバーの内3名(先述の藤、清水、加本)を出し忘れた」という責任で、「バツ賞」(つまり)としてグラウンドを1周させられた。 最後は、萩本球審を出演者全員で胴上げして締め括った。 萩本最終日 [ ]• スタッフ紹介のあと、萩本と同時に番組を卒業する井上れい子やクロベエ、ユージローと同時にゲートに立ち去った。 萩本は次期司会者の2人にメッセージを送った。 山口百恵の最後の出演 [ ]• 1980年10月12日(第469回)放送は、通常の審査と結果発表は行わず、に引退コンサートを行った山口百恵を送り出す特集を組んだ(収録は同年9月)。 百恵が『スタ誕』での思い出を萩本や森昌子・桜田淳子、審査員と振り返り、代表曲を披露した(「」、「」、「」、「」、「」、「」、「」)。 審査員とは谷・タモリが進行を務め、萩本とは電光掲示板のあるセットで行った(百恵は3番席に、萩本は4番席に着席。 百恵の頭上には合格時の点数である「329」が表示されていた)。 途中で森と桜田が百恵に「新妻に捧げる歌」を披露した。 ラストは森・桜田と「」を歌い、百恵の有終の美を飾った。 500回記念 [ ] 第500回記念回の収録が行われた日本武道館• 1981年3月29日と4月5日放送は、通常回の後楽園ホールを飛び出し、からの放送(収録は3月18日)。 その時のサブタイトルは「さよならピンク・レディー」。 パート1では3月31日に解散コンサートを控えていたピンク・レディーの軌跡を振り返った。 全デビュー者がメドレーでデビュー曲を数小節ずつ歌ったが、引退者はデビュー当時のポスターとともに出席できない理由が会場からアナウンスされた。 その時点での司会者は、坂本九・石野真子が担当しており、それに加え萩本欽一も会場に駆けつけた。 チーフプロデューサーの池田文雄は当時胃の疾患で入院しており、不運にも番組を直接見届けることはできなかった。 また、この年の4月1日にが開局。 4月5日放送回が、テレビ新潟開局後初の「スタ誕」ネット受けとなった。 ちなみに3月29日放送回は、4月4日(9:00 - 9:55、本来の『』枠)に放送された。 石野真子の最後の出演 [ ]• 番組出身者にして当時の司会・坂本九の補佐役だった石野真子がとの結婚に伴う芸能界引退のため、1981年9月6日放送をもって番組を降板。 当日は「真子ちゃんいつまでも元気でね」のサブタイトルで放送した。 なお石野は後に芸能界に復帰した。 10周年記念 [ ]• 1981年9月27日・10月4日・10月11日には3週にわたって放送。 9月27日と10月4日には「第37回決戦大会」を2週連続で放送し、10月11日には「10周年総集編」を放送した。 最終回 [ ]• 1983年9月をもって12年・619回の歴史に幕を閉じた。 最終回には初代司会者の萩本からVTRによるコメントがあった。 番組冒頭に番組出身の歌手が集結し(復帰したばかりのも出ていた)、ナレーターの伊藤英敏が5分間紹介した。 また、前週まで末期の段階でGC規定数週に満たなかった出場者が2人出たため、その週にクリアした出場者は認定書を贈られた。 番組エンディングには今後デビューが見込まれる合格者を紹介した後、全員で番組テーマ曲「スタ誕賛歌」を歌った。 「スタ誕賛歌」の前奏部分で「12年の足跡」を縦向き横文字ロールで紹介した。 応募総数が約200万通、予選参加総数が約60万人、番組出場者総数が5500組、うち決戦大会出場者総数が423組、うちプロデビュー者は81組。 終了時点で41組が現役で活躍し、以降のデビューを控えていた者が18人いた。 「スタ誕賛歌」を歌い終わった後、西川きよしが「それではみなさん、またお会いする日まで…(以下省略)」とコメントし、続いて「十二年間 六百十九回に亘って スター誕生! を応援してくれた皆さん… ありがとう!」の縦書きテロップが表示され、さらには表示中にブルーバックに切り替わる形で、12年間に亘る番組の歴史に終止符が打たれた。 正月特番『正月公演シリーズ』 [ ] 1975年から1981年までの毎年1月3日(1976年のみ1月2日)には、萩本欽一を始めとするレギュラーや、番組出身者が集まっての正月特番『正月公演シリーズ』が放送されていた。 スター誕生! 欽ちゃん一座正月公演 放送日時:1975年1月3日(金曜) 13:00 - 14:55 初の正月特番。 かつて当番組に出場しながら失格、当時女子プロレスラーとして売り出し中のも出演、山口百恵との共演と相成った。 欽ちゃん一座正月公演 放送日時:1976年1月2日(金曜) 14:00 - 15:20 萩本欽一正月公演「欽ちゃんのもうコレッキリデスカ!」 放送日時:1977年1月3日(月曜) 9:00 - 10:55 この回から朝の放送となる。 前年行われた「花の高三トリオ解散式」も放送された。 欽ちゃん一座正月公演「血闘! ミラクル光線対モモイロ光線」 放送日時:1978年1月3日(火曜) 9:00 - 10:55 恒例欽ちゃん一座正月公演 放送日時:1979年1月3日(水曜) 9:00 - 10:55 この回のみ、後述のに収録されている。 欽ちゃん一座正月公演〜しなやかに笑って'80〜 放送日時:1980年1月3日(木曜) 9:00 - 10:55 この年に萩本欽一が司会を勇退し、また山口百恵もこの年で引退するため、2人ともこの回が最後となった。 スタ誕! 一座正月公演 1981年1月3日(土曜) 9:00 - 11:45 谷隼人とタモリが司会となっての回だったが、これが最後となった。 番組終了後 [ ]• 1989年10月に司会の特番『スター発見』というタイトルでリメイク版を放送した。 また、同年8月5日に司会の特番『ザ・スカウト スター誕生ふたたび』も放送されている。 1993年12月31日放送の特別番組『』の枠内(1コーナー)と、1994年3月10日の『』の枠内で、番組終了10周年記念の同窓会の模様が『青春讃歌…スター誕生! 物語』のタイトルで放送された。 場所は新高輪プリンスホテル(現・)の大宴会場「飛天」で、放送日前日に事前収録された。 これも司会は徳光和夫だった。 2008年8月1日に放送された単発スペシャルドラマ『』において、当番組のセットや構成(初代司会の萩本時代のもの)が再現された。 また、桜田淳子が出場していた秋田予選のフィルムなど秘蔵映像も交えた。 なおこの時のセットにも番組協賛スポンサーの看板はかかっているが、実際の企業名をパロディーにした架空のものである。 また基本的には再現となっているが、音源の一部は放送当時のものを使っていた。 『スタ誕』以後の日本テレビの新人歌手オーディション番組として、2005年4月から2010年3月まで放送された『』がある。 2011年3月16日、から5枚組と5枚組の『スター誕生! 内容は、CDは番組から正式にデビューした88組のデビュー曲が完全収録されている。 DVDは、リアルタイムで放送されていた中から、第100回放送分、『木曜スペシャル』の枠で放送された『実録・スター誕生! 1974』(1974年11月14日放送)、7周年記念(1978年10月1日放送)、の正月スペシャル『欽ちゃん一座正月公演』(1月3日放送)、番組最終回、終了後に『木曜スペシャル』の枠で放送された前述の『青春讃歌…スター誕生! 物語』、『』の枠で放送された『スター誕生! 物語』(2000年11月20日放送)が収録されている。 しかし、DVDは映像が大幅に修正を施されたり、一部出身者のシーンが削除されている。 2013年9月24日『今夜あの場所で』と題された小泉今日子 、、司会によるロケーショントークバラエティーで、「小泉が芸能界デビューをするきっかけになった場所」として後楽園ホールでの対談が行われ、そこに『スター誕生! 』のセットが再現された。 なお協賛社のパネルは外してあった他、観客を入れていない状態での収録だった(放送中に入る観客の笑い声は(合成処理)によるものだった)。 また、番組内で、小泉の決戦大会でのスカウトの模様が紹介された。 2017年8月26日に放送された『』内で放送された単発ドラマ『』において、本番組の企画発足からピンク・レディーの決勝までのエピソードが再現された。 また、番組内において、森昌子、ピンク・レディーの決勝大会の映像も交えた。 スタッフ [ ] (1980年時点のもの。 萩本が降板する頃)• 監修:阿久悠• 振付:土居甫• アコーディオン:横森良造• 編曲:高見弘• チーフプロデューサー:池田文雄• 製作:日本テレビ なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。 ネット局 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年8月) 系列は放送終了時・ネット終了時のものを記載。 『』 下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。 当時の社名はホリプロダクションで、1990年に現社名に改称。 『ナベプロ帝国の興亡』、1992年、274頁。 放送枠の確保に(当時のNET系準キー局・の社長)が動き、再三にわたり調整した経緯もあり、これ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組における同一事務所所属タレントの表裏出演を避ける習慣もあり、これまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという(『芸能王国渡辺プロの真実。 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかったバラエティ番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていた他、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。 また、ニューミュージック部門「NON STOP」所属歌手も出演を継続させた。 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。 芸能部『テレビ番組の40年編』、1994年、360頁。 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。 」と発言した。 ただしビールのCMは「本生」のみ夏にしか放映されず(当時ビールは夏の商品とされた)、(か)に限定されていた。 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』、1983年。 渡辺プロ副社長(当時)の実家が経営。 『テレビ番組の40年』、356頁。 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。 に放送された同窓会では、「私だけ『』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。 1980年頃までは収録にを使用していたためで、操作が煩わしく、かつは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。 さらに視聴者参加番組という宿命上、や等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。 決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。 出身、1984年出演当時の年齢は19歳。 モデルのとは別人。 なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『』()にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。 『』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞』1989年8月号p. 212)および夕刊第12面(同前p. 224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。 「WEEKLY CHASER」(『』1989年8月7日号)p. 13にゲスト出演者・の「出演」予定記載あり。 収録日は8月1日。 - VAPによる紹介ページ• 『』()では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想()の中で『君でもスターだよ! 』と題する、当番組へのともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。 『』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。 当初の1年間(1972年9月17日の第4回決戦大会まで)は日本テレビ系列単独加盟局で鳥取県。 翌週の9月24日放送分から島根県にも。 1983年3月までの放送免許エリアは香川県のみ。 しかし岡山県の南部を中心に視聴可能エリアは広かった(実際に西日本放送の制作協力により岡山でも公開収録が行われ、大橋恵里子が合格しデビューしている)。 詳しくはを参照。 参考文献 [ ]• テレビ人生! 「そんなわけで!! 」録(著・池田文雄、コアラブックス)1985年• 夢を食った男たち(著・阿久悠、)1993年。 に連載された『阿久悠の実録・テレビ三国志』の単行本版• 夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代(著・阿久悠、道草文庫()。 上記の文庫版)1997年• 夢を食った男たち - 「スター誕生」と歌謡曲 黄金の70年代(著・阿久悠、。 上記の再発版)2007年 関連項目 [ ]• - 1975年に系で公開された森昌子・山口百恵・桜田淳子の主演映画。 本番組プロデューサーの池田文雄が企画に参加し、レギュラー出演者の黒部幸英が「クロベー」名義で出演している。 なお、同時上映作の『』は片平なぎさの主演映画である。 日曜11:00枠 前番組 番組名 次番組.

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