今宵は休戦して祝杯をあげる。 Sekai No Owari 歌词

Dragon Night

今宵は休戦して祝杯をあげる

その学校には、体育科、特別進学科、の3つの科があるとします。 それぞれ、特徴があります。 体育科には、自負があります。 部活で成果を上げてこの学校を全国に知らしめるという目標があり、実際にそれを達成しています。 特別進学科にも、プライドがあります。 学校で一番の手厚い指導を受けて名門大学に進学するこ-が、自身の目標でもあり、学校が目指すところでもあります。 はそれを面白く思っていません。 そこにあるのは、嫉妬とやっかみです。 先生たちは体育科や特別進学科の生徒ばかりをひいきしているようです。 優勝劣敗が世のことわりですが、とはいえもっと対等でいたい、という気持ちを持っています。 そんな設定で、歌詞を見てみます。 今宵は百万年に一度太陽が沈んで夜が訪れる日 終わりの来ないような戦いも今宵は休戦して祝杯をあげる全日制の学校は、ふつうは昼間に授業があります。 学校の友だちと夜に顔を合わせることは基本的にはありません。 歌詞には「夜が訪れる日」とありますが、ふだんだったら学校生活の中で夜のシーンは描かれません。 でも夜もたまにはあります。 それはたとえば、キャンプファイヤーです。 こういうときには、ふだん起こらないことが起こります。 この曲では、ふだんいがみ合っているはずの学科同士で、休戦の協定が結ばれます。 キャンプファイヤーは、たいてい大きな火を中心に全員が輪になる隊形になります。 この隊形には大きな特徴があります。 それは、全員が対等だということです。 ふつう、クラスがクラスごとに並ぶとすれば1組から順番です。 そこに優劣の関係がなかったとしても、そこには線形的な関係が生じます。 2組は必ず1組の次だし、そのあとも3、4、と順に続きます。 キャンプファイヤーは違います。 全員が火から同じ距離に立つとき、そこには順序も中心もありません。 丸い形は、対等であることの証です。 と同じです。 人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ だから主人公は、ふだんは気づかなかった自分と「彼」との間の対象な関係に気づきます。 主人公はです。 そして「彼」は体育科か、特別進学科のどちらかです。 どちらにしても「彼」は優遇される立場です。 主人公は「彼」の鼻持ちならない感じがいやだと思っていますが、学力にしろ、スポーツにしろ、実力を勝ち取ったのは彼自身の努力の成果でもあります。 報われるのは当然です。 主人公は火を囲みながら、そんなことを考えたのでしょう。 ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達 のように歌うだろう ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード 今宵、僕たちは友達のように踊るんだ「ドラゴンナイト」とは、そんな夜のことです。 日常生活で見ないような大きな火柱は、もしかしたらドラゴンのように見えたのかもしれません。 「僕たちは友達のように歌うだろう」という部分はすごくイイ感じです。 「僕たちは友達になって歌った」とかではないからです。 ひとつの炎のもとで他のクラスの人といくらお近づきになっても、友達になったわけではない、という姿勢を、主人公は崩さないのです。 異口同音の夜 2番に進んでも、歌詞は基本的に同じことを歌います。 の歌詞みたい。 今宵は百万年に一度太陽が夜に遊びに訪れる日 終わりの来ないような戦いも今宵は休戦の証の炎をともす「太陽が夜に遊びに訪れる日」とは、太陽のように強い光が夜に現れるということです。 1連のときにはあまり深く考えなかった「休戦」という言葉も、だんだん強い意味をもって見えてきます。 「停戦」でも「終戦」でもなく、「休戦」なのです。 戦いが終わるわけではありません。 ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう コングラッチュレイション、グラッチュレイション、グラッチュレイション 今宵、僕たちの戦いは「終わる」んだこの「コングラッチュレイション、グラッチュレイション、グラッチュレイション」の部分は、たぶん みんなが口々に「コングラッチュレイション」って言ったことを示しているんだと思いました。 違うバックグラウンドの人たちが同じことを話しているわけで、文字通りの異口同音です。 ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード 今宵、僕たちは友達のように踊るんだそうして「ドラゴンナイト」は続きます。 他のクラスの人たち、腹の底でどう思っているのかはわかりません。 でもいまは、こうしてやってきた束の間の休戦に踊るしかありません。 何度も繰り返される「友達のように」というフレーズ、大事なのは「友達」の部分ではありません。 「のように」の部分です。 主人公は、このお祭り気分が一時的なものだとわかっています。 でも、わかっていて、それに騙されるのです。 踊らされるのです。 そうすることしか、いまはできないからです。 というわけで、『Dragon Night』でした。 今回は妄想ドリブンで記事書きました。 以前からですが、私は歌詞を書いた人と歌詞そのものを切り離して考えています。 作詞されたFukaseさんには私と違うお考えがあると思いますが、それとこれとは別物というスタンスでいます。 ところでこの曲のコード進行は、なったカノン進行です。 「カノン進行は禁断の果実」の嘘 こちらで田沢さんがおっしゃっているように「カノン進行を使った曲が、そのミュージシャンの代表曲になりやすい」感じ、私も同感です。 ドラゲナイがカノン進行だなんて、 、策士だな!って思ってます。 たのしい。 は以前にもふたつ記事を書きました。 よろしければあわせてお楽しみください。 オフラインの「君」を見ながら - SEKAI NO OWARI『眠り姫』 - 5日と20日は歌詞と遊ぼう。 SEKAI NO OWARI『RPG』 - 5日と20日は歌詞と遊ぼう。

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Dragon Night SEKAI NO OWARI 歌詞情報

今宵は休戦して祝杯をあげる

今月のことばは昨年十月にリリースされ、大ヒットした「SEKAI NO OWARI」の『Dragon Night(以下、ドラゴンナイト)』 の歌詞からです。 ) この曲は昨年の紅白でも披露され、あちこちで流されていたので皆様も耳にしたことがあるのではないでしょうか。 ピエロの衣装やトランシーバーをマイク代わりにするなど、独特の世界観を持つ四人組のバンドで、軽快な楽曲に強いメッセージを歌詞に載せて発信しています。 その中でこの『Dragon Night』という曲は、人間の根本的問題ともいうべき自我について、正義という言葉でもって表現します。 今ニュースを賑わしているのは、子供たちの集団暴行や惨殺事件、首相が推し進める安全保障関係、世界に目を向ければ、同じ宗教信者同士(派は違う)が三つ巴四つ巴で撃ち合い、白人と黒人と…、人間の争いに関することを目にしない日ない。 ただ、これらのことは現代の社会問題なのかといえばそれだけではなく、人間の歴史が始まって以来、我々人間が常に抱えてきた不変の問題だろうと思うのです。 もっと身近に考えても、学校、家庭、職場と私たちをとりまく環境はさまざまで、決して安心できないある意味戦場ではなかろうか。 こんなことを思うのは自分だけかと思っていたら、多かれ少なかれ大概皆そう思っていたりするのでおもしろい。 その中で道徳や秩序といったものがどれほど頼りになるものか。 絶対的に身をゆだねていられないのが私たちの正体だ。 曲の中で、この世から争いがなくなる夜(ドラゴンナイト)は、「 今宵は百万年に一度」であるそうだ。 地球で人間の時間が始まってから百万年、「 終わりの来ないような戦いも 今宵は休戦して祝杯をあげる ~ 今宵、僕たちの戦いは「終わる」んだ」実は皆このドラゴンナイトを待ちわびている。 ではなぜ、人は争いをやめないのか。 「 人はそれぞれ「正義」があって 争い合うのは仕方ないのかも知れない」 正義とは何か? 正義とは完全無欠の善、正義でないものは悪、というとらえ方に間違っているという人は少ないであろう。 ところが辞書で正義をひけば【人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値(ブリタニカ)】とある。 究極的な価値は一つであるから、歌詞のように正義が人それぞれであったらあべこべだ。 この究極的な価値こそドラゴンナイトであろう。 私たちの親先祖はそれぞれの正義を超えた、この究極的な価値(本当の道理)を請い求め、見出すことを目指してきた。 仏教ではこれを浄土といい、またこの歌詞にいうそれぞれの正義を自我という。 自我は人間が自利利他円満、皆が満たされる浄土に共に立てない一番の原因と教えます。 「 だけど僕の「正義」がきっと 彼を傷つけていたんだね」 普段私たちはこの自我(人それぞれの正義)を最上と頼りにし行動する。 浄土は自分の力では開けない。 浄土を求めていたのに普段自我に支配されてしまう。 このことを私たちは教えてもらうしかありません。 本当の道理から、あなたが、誰々が、ではなく自分が教えてもらうしかないのです。 それには聞くしかありません。 何かわからないけれど、そんな夜があったらいいな、であればそれはただのファンタジー。 この曲のドラゴンナイトはファンタジーを用いた、一度たりともそのような夜は来たことがないよ、という我々人間の自我に対する強烈なアンチテーゼ。 本当に「 友達のように歌い ~ 踊るんだ」には共に自分が聞き続け、おしえてもらうしかないのです。 船橋昭和浄苑 溝邊 貴彦.

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“私立セカオワ学園”にて

今宵は休戦して祝杯をあげる

今月のことばは昨年十月にリリースされ、大ヒットした「SEKAI NO OWARI」の『Dragon Night(以下、ドラゴンナイト)』 の歌詞からです。 ) この曲は昨年の紅白でも披露され、あちこちで流されていたので皆様も耳にしたことがあるのではないでしょうか。 ピエロの衣装やトランシーバーをマイク代わりにするなど、独特の世界観を持つ四人組のバンドで、軽快な楽曲に強いメッセージを歌詞に載せて発信しています。 その中でこの『Dragon Night』という曲は、人間の根本的問題ともいうべき自我について、正義という言葉でもって表現します。 今ニュースを賑わしているのは、子供たちの集団暴行や惨殺事件、首相が推し進める安全保障関係、世界に目を向ければ、同じ宗教信者同士(派は違う)が三つ巴四つ巴で撃ち合い、白人と黒人と…、人間の争いに関することを目にしない日ない。 ただ、これらのことは現代の社会問題なのかといえばそれだけではなく、人間の歴史が始まって以来、我々人間が常に抱えてきた不変の問題だろうと思うのです。 もっと身近に考えても、学校、家庭、職場と私たちをとりまく環境はさまざまで、決して安心できないある意味戦場ではなかろうか。 こんなことを思うのは自分だけかと思っていたら、多かれ少なかれ大概皆そう思っていたりするのでおもしろい。 その中で道徳や秩序といったものがどれほど頼りになるものか。 絶対的に身をゆだねていられないのが私たちの正体だ。 曲の中で、この世から争いがなくなる夜(ドラゴンナイト)は、「 今宵は百万年に一度」であるそうだ。 地球で人間の時間が始まってから百万年、「 終わりの来ないような戦いも 今宵は休戦して祝杯をあげる ~ 今宵、僕たちの戦いは「終わる」んだ」実は皆このドラゴンナイトを待ちわびている。 ではなぜ、人は争いをやめないのか。 「 人はそれぞれ「正義」があって 争い合うのは仕方ないのかも知れない」 正義とは何か? 正義とは完全無欠の善、正義でないものは悪、というとらえ方に間違っているという人は少ないであろう。 ところが辞書で正義をひけば【人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値(ブリタニカ)】とある。 究極的な価値は一つであるから、歌詞のように正義が人それぞれであったらあべこべだ。 この究極的な価値こそドラゴンナイトであろう。 私たちの親先祖はそれぞれの正義を超えた、この究極的な価値(本当の道理)を請い求め、見出すことを目指してきた。 仏教ではこれを浄土といい、またこの歌詞にいうそれぞれの正義を自我という。 自我は人間が自利利他円満、皆が満たされる浄土に共に立てない一番の原因と教えます。 「 だけど僕の「正義」がきっと 彼を傷つけていたんだね」 普段私たちはこの自我(人それぞれの正義)を最上と頼りにし行動する。 浄土は自分の力では開けない。 浄土を求めていたのに普段自我に支配されてしまう。 このことを私たちは教えてもらうしかありません。 本当の道理から、あなたが、誰々が、ではなく自分が教えてもらうしかないのです。 それには聞くしかありません。 何かわからないけれど、そんな夜があったらいいな、であればそれはただのファンタジー。 この曲のドラゴンナイトはファンタジーを用いた、一度たりともそのような夜は来たことがないよ、という我々人間の自我に対する強烈なアンチテーゼ。 本当に「 友達のように歌い ~ 踊るんだ」には共に自分が聞き続け、おしえてもらうしかないのです。 船橋昭和浄苑 溝邊 貴彦.

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