フリッツ フォン エリック。 フリッツ・フォン・エリック

フリッツ・フォン・エリック

フリッツ フォン エリック

フリッツ・フォン・エリック プロフィール リングネーム フリッツ・フォン・エリック 本名 Jack Barton Adkisson ニックネーム 鉄の爪 身長 193cm 体重 120kg - 125kg 誕生日 1929-08-16 死亡日 1997-09-10 (68歳没) 出身地 ジュエット スポーツ歴 トレーナー デビュー 引退 テンプレートを表示 フリッツ・フォン・エリック( Fritz Von Erich、本名: Jack Barton Adkisson、 - )は、の、・。 ジュエット出身。 上の出身地は・。 の開祖として知られ、「 鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。 引退後はテキサス州およびを本拠地とするプロレス団体 のプロモーターとして活動した。 来歴 [編集 ] 時代にで活躍した後、のコーチを受けてにプロレスラーとしてデビュー。 ・のとなって活動し、の地区ではと抗争。 このギミックの先達であるともタッグを組み 、後半からは「弟」という設定のとの兄弟タッグでも悪名を売った。 は地区でとも抗争し 、、、、など、が保持していたにも各地で再三挑戦している。 12月1日、でからUSヘビー級王座を奪取。 7月21日にでから、世界ヘビー級王座(オマハ版)を奪取。 バーン・ガニアに敗れ同王座から転落するが、7月27日には再びネブラスカ州オマハにおいてバーン・ガニアを破り、オマハ版世界王座を奪回 とともに、ガニアが同時に保持していたを獲得し第9代王者となった。 よりで傘下の団体 NWAビッグタイム・レスリング( NWA Big Time Wrestling)を設立。 大ヒールからに転じ、同年12月にはフラッグシップ・タイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降はビッグタイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。 アメリカン・ヘビー級王座には1966年からにかけて、、、、、、、、、らを破り、通算15回に渡って戴冠した。 その間、にはのNWA世界ヘビー級王座に度々挑戦。 からまではNWAの会長職も務めている。 より団体名を WCCW( World Class Championship Wrestling)に改称し 、6月4日の戦を最後に現役を引退。 以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。 自身の息子たち(、、)をエースに、したブルーザー・ブロディが彼らの助っ人を務め、ヒール陣営では、、らが活躍、NWA世界ヘビー級王者のや、も招聘して北米有数の繁栄テリトリーとした。 なかでも、兼のが手掛けたフォン・エリック兄弟とフリーバーズのは、アメリカのプロレス業界誌『レスリング・オブザーバー』の "" に、との2年連続で選ばれたほどのドル箱カードとなった。 一方で、長男のハンス(ジャック)・アドキッソン・ジュニアが幼くして不慮の事故により早世して以降、デビッド、ケリー、、と息子たちがことごとく死去したため、「呪われた一家」とも囁かれた(デビッドは日本で急死、ケリー、マイク、クリスは自殺 )。 健在なのは次男(フォン・エリック兄弟としては長男)のケビンだけとなっている。 2月、当時のNWA会長の発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機に、団体名を WCWA( World Class Wrestling Association)と改称してNWAを脱退。 にはとの興行戦争に抗するべくのと合併し、新たに発足したのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。 その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、にのため死去。 68歳没。 、(フリッツ、ケビン、デビッド、ケリー、マイク、クリス)としてに迎えられ、顕彰セレモニーにはケビンが出席した。 日本での活躍 [編集 ] 11月、に初来日(当時の日本プロレスは、同年8月に旗揚げを発表したへの妨害工作や牽制を進めており、その一環として、におけるプロレス初開催の準備と並行してフリッツの招聘交渉を開始していた)。 来日第1戦となる11月28日、でのに挑戦。 帰国前の12月3日にも日本武道館で馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再挑戦したが、これは武道館におけるプロレス初興行のメインイベントでもあった。 馬場の同王座には、再来日時の5月27日に 、12月19日にの 、3度目の来日時の3月3日に 、4度目の来日時の9月4日にで 、通算6回に渡って挑戦した。 1971年9月6日には札幌中島スポーツセンターにおいて、猪木の持つにも挑戦した。 日本プロレス崩壊後の1973年12月には、ジャイアント馬場が前年に旗揚げしたに来日。 12月13日に大阪府立体育館、翌14日にで、馬場のに連続挑戦した。 の再来日時には、当時のNWA世界ヘビー級王者への挑戦権を賭けて、7月25日に日大講堂で馬場とで対戦している。 最後の来日となったには、1月5日にで、馬場の弟子であるの「」最終戦の対戦相手を務めた。 すでに全盛期を過ぎていたものの、リング下でに付いていた若手選手時代のを、をかけてそのままリング上に引きずり上げるなど、往年の迫力は健在だった。 日本には日本プロレスに5回、全日本プロレスに3回、通算8回来日した。 このうち、1967年5月、1970年2月、1973年4月の日本プロレスへの参戦時は、彼の代名詞でもあるアイアン・クローをシリーズ名に冠した『 アイアン・クロー・シリーズ』なる短期シリーズへの外国人エースとしての来日であり、通常のシリーズへの来日時も、いずれも数日間の特別参加という超大物扱いだった。 当時、アメリカではに転向していたが、日本ではに徹した。 また、テキサス州ダラス地区のプロモーターとして、息子たちや、、など数々の選手を日本にブッキングした。 頃から日本での提携先を全日本プロレスからに変更したが、自身は新日本に来ることはなかった。 息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際にのを見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。 フォン・エリック・ファミリー [編集 ] 得意技 [編集 ]• (相手のを掴むブレーン・クローと腹部を掴むストマック・クローを使い分けていた)• (キック力にも優れ、は「馬の蹴りのようだ」と表現した) 獲得タイトル [編集 ]• :1回• 世界ヘビー級王座(版):2回• NWA北米ヘビー級王座(版):2回• NWA USヘビー級王座(版):3回• NWAテキサス・ヘビー級王座:3回• NWAアメリカン・ヘビー級王座:15回• :(として殿堂入り。 インダクターは) エピソード [編集 ]• 生まれついて掌が大きく、は32cmに達し、握力は120kgを超えていたという。 その強靭な握力を活かして考案された「」は、相手の顔面あるいは胃袋を握りつけるという単純明快な技でありながら強烈なインパクトを有し、昭和のプロレスを代表する必殺技となった。 アイアン・クロー誕生の逸話としては、による創作では「街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折してしまった」あるいは「フットボール選手時代にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案した」などの話がある。 梶原一騎は上記のほか、数々のアイアン・クロー伝説を『』などで書いた。 その中には、「アイアン・クローを頭に食って脳波がおかしくなったレスラーは5人を超える」というものまである。 また、プロモーターとしての成功に関しても、同作品の編において、「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックのスーパーマーケットで買い物をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーを支払われる」などと誇張して表現した。 なお、実際に「エリック帝国」でファイトした経験を持つは、「エリックはホテルやスーパーだけじゃなくて銀行も経営していた。 ただ、個人オーナーじゃなくて共同経営者の一人だね。 ギャラがエリックの経営してる銀行から発行された小切手だったかどうかは覚えてないけど、たしかダラスではエリックが共同経営してる銀行で口座を作ったような気がする」と語っている。 アメリカでは後半よりに転向していたが、日本ではのスタイルを押し通し、7月25日にで行われたとのは凄惨な流血戦となった。 試合開始早々の場外乱闘の際、興奮した観客の男にボールペンで刺される事故に遭うが、平然としている様子が映像に残されている。 脚注 [編集 ] []• Online World of Wrestling. 2015年4月8日閲覧。 SLAM! Sports. 2015年4月10日閲覧。 Online World of Wrestling. 2010年9月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2012年8月18日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月8日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2012年8月18日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年9月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月11日閲覧。 Cagematch. net. 2015年4月8日閲覧。 SLAM! Sports. 2015年4月10日閲覧。 SLAM! Sports. 2015年4月10日閲覧。 About. com. 2010年9月10日閲覧。 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol. 18』P45 - P50(2016年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583624181)• Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 『16文が行く (新装版) 』P205(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)• Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年4月10日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月8日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 Puroresu. com. 2015年4月10日閲覧。 Cagematch. net. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2016年9月24日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月10日閲覧。 (2012年1月16日). 2015年4月11日閲覧。 外部リンク [編集 ]•

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ケビン・フォン・エリック

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ドイツ人ギミックで売ったが、両親がユダヤ系移民だったという説がある。 リング上での実力者振りはもちろんのこと、一緒に来日したミル・マスカラスがゴマをすっていたというぐらいプロモーターとしても威厳を持ち、1975年からはNWA会長も勤めた。 必殺技のアイアンクローは一度つかんだら絶対はなさない。 その握力は130キロを超えていたという。 リング上での栄光とは裏腹に、私生活では5人の息子を事故死で亡くしており、ケネディ家とともに呪われた一家と呼ばれ、晩年は寂しいものだったといわれている。 1997年に肺がんの為他界。 日本プロレス界を支えた外国人レスラーたち。 ファンはみな、「未知の強豪」の来日に胸躍らせ、「悪役レスラー」の場外乱闘に逃げ回った。 懐かしの顔を写真と共に紹介しよう。 息子達も次々とレスラーになったが、長男ケビン以外はみな非業の死を遂げ「呪われたエリック一家」と呼ばれた。 御存知「鉄のツメ一家」の総帥でアイアンクロー&ストマッククローと言えばこの人・・・呪われた一家としてアメリカでもよく取り上げられる。 次男ケビンを除く息子たちは不慮の死(デビットは来日時ホテルで病死・ケリーとマイクは自殺)を遂げた。 大学時代はアメフトの花形プレーヤーとして活躍し、23歳でプロレス入り。 入門当時は本名フレッドアドキッセンとしてファィトしていた。 その後テキサスを基盤としテキサスヘビー・アメリカンヘビータイトル戴冠。 昭和41年初来日以降馬場・猪木等日本勢をクローとラフ殺法で大いに苦しめ昭和48年キラーカールクラップとのコンビでインタタッグを大木&上田組から奪取し米国に持ち帰った。 昭和57年8月ダラステキサススタジアムでキングコングバンディとアメリカンヘビー級タイトルを行い奪取しそれが引退試合となった。 1975年8月NWA会長に就任し、NWA崩壊後はWCCWを設立し新日本と提携しケビン&ケリー兄弟が来日している。 1997年病死。 享年66歳 顔面を掴めば血ダルマにして胃袋を掴めばヘドを吐かせ連戦連勝です。 エリックの鉄の爪は軟式用の野球ボールをパンクさせてリンゴを片手で握り潰してジュースにしてエリックのアイアンクローで頭を掴まれて脳波が狂ったレスラーは5人を超えます。 本気になれば頭がい骨から顔の肉をむしりとることが可能といわれたレスラーです。 ディック・ザ・ブルーザーは警官隊と乱闘してブタ箱入りとなったのは1度ですが、エリックは2度も打ち込まされました。 地上最強の鉄人・ルー・テーズさえ、いつも鉄の爪に血ダルマにされての反則勝ちばかりでエリックに完勝したレスラーはいないです。 ルー・テーズと10数戦してエリックの反則負けは多いのですが、テーズは1度も2フォールを奪えず、エリックは生傷男 ブルーザーを何度もKOしています。 エリックは握力計の針を吹っ飛ばします。 この世界一の握力が顔面と胃袋を掴めば失神させるアイアン・クローが生まれるのです。 こんな、レスラーは2度と出てこないと思います。 鉄人ルー・テーズのバックドロップと並んでエリックのアイアンクローは2大必殺技です。 エリックを超える握力の持ち主はいないでしょう。 驚異的な握力を武器にアイアンクローを開発してエリックは鉄の爪とレスラーたちから恐れられました。 エリックは鉄の爪といわれるアイアンクローで世界中の レスラーたちを苦しめました。 ルー・テーズが最大の苦手にしていた相手の一人でした。 テキサスの帝王の異名を欲しいままにしたレスラーでした。

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デビッド・フォン・エリック

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巨大な手のひらが生み出す握力は120kgを超える 一説には200kgとも といわれ、その驚異の握力からなる必殺技「アイアンクロー」を武器にトップに君臨したプロレス界のレジェンドだ。 オールドファンには、ジャイアント馬場との名勝負が思い起こされるのではないか。 そして同時に、その栄光の陰にある悲劇も思い起こさずにはいられないのである……。 街を牛耳る存在にまでなったフリッツ・フォン・エリックだったが…… フリッツは、地元テキサス州ダラスにプロレス団体を設立。 同団体のオーナー兼エースとして活躍し、引退後もプロモーターとして一時代を築いている。 ダラスではホテル、スーパー、そして銀行まで経営していたというから、まさにアメリカン・ドリームを体現した成功者だ。 子宝にも恵まれ6人の息子が誕生したフリッツ。 自分と同じようにプロレスの世界チャンピオンに育て上げる夢を抱いていたが、長男が6歳で事故死 誤って高圧線に触れての感電死 という不幸に見舞われてしまう。 残った5人の息子達は皆プロレスラーになったのだが、本当の悲劇はこれからだった……。 急死、再起不能、自殺……不幸に見舞われ続けるフリッツの息子たち 84年2月、三男のデビッドが全日本プロレス来日時に内臓疾患により、25歳の若さで急死してしまう。 素質も体格も兄弟の中でもっとも恵まれており、当時の世界最高峰のベルト「NWA世界ヘビー級王座」目前とされた逸材の突然死は、新聞やテレビでも報道されるほどに、ショッキングでセンセーショナルなニュースだった。

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