尾張柳生。 2. 柳生新陰流の歴史

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由来 室町末期、上泉伊勢守信綱は愛洲陰流より「転」を工夫して新陰流を創始した。 信綱に師事した柳生石舟斎宗厳は「無刀の位」を開悟して第二世を継いだ。 宗厳五男の宗矩は徳川家康に仕え、将軍秀忠、家光の兵法師範となり剣名を天下に高めた。 次いで十兵衛三厳、宗冬、宗在と伝えたが、江戸後期には惜しくも兵法から遠ざかった。 一方、宗厳の長男厳勝の子、兵庫助利厳は祖父石舟斎の薫陶を受け、異才が開花し第三世を継承した。 元和元年に尾張藩主徳川義直の兵法師範となり、太平の時代に即応する「直立つる身」-自然体-の兵法を確立し、上泉流祖以来の剣の理と刀法に根本的な改革を加え、当流を大成させた。 利厳の子、連也厳包も天才的な達人で「尾張の麒麟児」と称えられた。 当流は尾張藩の「御流儀」と尊ばれ、道統は尾張柳生家代々の師範と尾張藩主徳川家の協力によって正しく伝承されて、第二十二世宗家柳生耕一厳信に至っている。 系譜 流祖・上泉信綱-柳生宗厳-柳生利厳-徳川義直-柳生厳包-徳川光友-徳川綱誠-柳生厳延-徳川吉通-柳生厳儔-柳生厳春-徳川治行-柳生厳之-柳生厳久-徳川斎朝-柳生厳政-柳生厳蕃-徳川慶恕-柳生厳周-柳生厳長-柳生厳道-柳生耕一厳信 流儀の特徴 心身ともに「無形の位」を本体とし、千変万化する相手を明らかに観て、その働きに随って無理なく転変して勝つ自在の刀法、すなわち活人剣である。 太刀を全身の働きによりのびのびと遣い、刀身一如、臨機応変、自由活発に働く神妙剣を目指している。 流祖以来の剣理と刀法が正しく体系的に完備している。 伝承されている伝書 一 印可状(上泉伊勢守自筆相伝書) 一 新陰流 影目録 四巻(同右) 一 新陰流兵法目録事(柳生石舟斎宗厳自筆相伝書) 一 新陰流截相口伝書事(同上) 一 没茲味手段口伝書(同右) 一 始終不捨書(柳生兵庫助利厳自筆相伝書) 一 新陰流兵法目録(柳生連也厳包自筆相伝書).

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新春ワイド時代劇 天下騒乱〜徳川三代の陰謀:テレビ東京

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鑑定書:Peper Certificate : 昭和44年貴重刀剣 国 Country Kuni ・時代 Era Jidai : 尾張 Owari 延宝頃(Edo era 1673年) 刃長:Blade length Cutting edge : 63. 2cm(二尺〇寸九分) 反り:Curve SORI : 1. 8cm 元幅:Width at the hamachi Moto-Haba : 3. 23cm 元鎬重:Thickness at the Moto-Kasane: 0. 76cm 先幅:Wide at the Kissaki Saki-Haba : 2. 35cm 先鎬重:Thickness at the Saki-Kasane: 0. 55cm 拵全長:Length of Koshirae : 101cm 茎:Sword tang Nakago : 生茎、化粧勝手下がり鑢目。 穴一+忍穴一。 体配:Shape Taihai : 鎬造、庵棟、中切っ先。 彫物:Engraving: 差表に二本腰樋の彫刻。 地鉄:Jigane Hada : 小板目詰んで地沸つく。 刃 文:Temper patterns Hamon : 互の目乱れ。 帽子:Temper patterns in the point Bohshi : そのまま乱れ先小丸へ返る。 登録:Others: 東京登録、昭和44年 【解説】江戸時代、将軍家指南役の大下第一の剣は柳生新陰流、すなわち江戸柳生。 これを受け継いだ柳生石舟斎より柳生の歴史は始まります。 この新陰流正統は長男の柳生兵庫助利厳に与えられ、利厳は尾張徳川家の剣術指南役として仕えました。 その尾張柳生の傑出した使い子として、柳生新陰流を完成させたのが、利厳 兵庫助 の子である柳生連也斎でした。 名古屋藩主徳川光友の兵法師範となりました。 江戸の剣術を語る時、柳生新陰流の伝承を忘れることは出来ません。 本刀は新陰流の達人柳生連也斎が最も信頼し、愛用したと云われる肥後守泰光代の貴重な御刀です。 現存作は脇差がほとんどで、刀は珍しく大珍品となります。 肥後守泰光代は、本国美濃から名古屋に移住し江戸に出て石堂派対馬守常光に学び肥後守を受領して尾張徳川家の剣術指南役柳生家の抱え工となりました。 尾張徳川家の宝刀、肥後守泰光代の鬼包丁は41.2センチはとても有名です。 柳生連也斎は短めの刀を愛用し拵えも小さ目の柳生拵と呼ばれるものが伝わっています。 本作体配は、身幅広く重ねは尋常にして反りが利いた、物切れしそうな刀姿です。 地鉄は小板目詰んで地沸がつき誠に強い鍛です。 切れる刀、強い刀という感じです。 刃文は小沸出来の互の目乱れ。 匂い口は締り心で明るい小沸が美しくついて刃中には足、葉が働いて明るく冴えています。 帽子はそのまま細かく乱れて小丸へと返ります。 茎は生ぶで錆味良く、鑢目、刻銘ともに保存状態は抜群と云ったところです。 達人の刀と連想させてくれる忍穴が茎尻にあります。 銀無垢一重はばき。 柳生拵ではございませんが、打刀拵が添えられております。 全てのVISAカード、Masterカード、NICOSカード、UFJカード、DCカード、 がご利用頂けます。 ボーナス一括払い。 1~24回まで分割払いも可能。

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石舟斎の嫡孫として 柳生兵庫助は「柳生新陰流」を創始したの孫にあたる人物。 の嫡男・厳勝は戦場で受けた傷によって歩行困難であったため、家督を相続することができず、兵庫助が誕生した時には既に隠居状態にありました。 このため兵庫助は、剣術を諦めなければならなかった父に代わってから直々に「新陰流」の手ほどきを受けていました。 兵庫助はに資質、兵法が極めて似ていると評され、もそれを喜んで一層の教授を行ったといいます。 やがて徳川家康が叔父・を兵法指南役に迎えたことが世に知れ渡ると「柳生新陰流」の評価は急上昇し、の8歳年下である兵庫助を求める者が声が後を絶ちませんでした。 は兵庫助の気性を心配して手元から離すのを渋っていましたが、熊本の加藤清正は熱心な懇願には断り切れなくなり、兵庫助は熊本に向かうことになります。 この際、は「兵庫助は短慮であるから、どんなことをしでかそうとも、死罪3回分までは必ず許してあげて欲しい」と条件付きで承諾したといいます。 出典: 修行の旅へ 熊本藩に召し抱えられた兵庫助でしたが、の不安は的中します。 肥後でキリシタン一揆が発生した時、兵庫助は清正の意を受けて鎮圧に向かいました。 すると戦場に到着した兵庫助は総攻撃を主張して先発隊の加藤家家臣と口論となり、その者を斬り捨てて独断で総攻撃を仕掛けて鎮圧しました。 そして兵庫助は、そのまま暇を乞うて清正のもとを去っていったのです。 その後、兵庫助は諸国を巡る武者修行の旅に出かけました。 時々は柳生庄に帰っていたようですが、足かけ12年以上の修行の旅であったようです。 この武者修行の間、死期を察したから印可状と『柳生の大太刀』を授与され、また熊野では棒庵入道より「新當流」の薙刀、槍術における『唯授一人』の印可を授けられています。 尾張柳生 元和元年(1615)、尾張藩藩主・徳川義直の宿老・成瀬隼人正の勧めで兵庫助は大御所・徳川家康に拝謁しました。 兵庫助は義直の師範となるよう直々に要請されましたが、「江戸の但馬()とは違い、兵法以外の御奉公は一切御免こうむりたい」と述べ、のような兵法以外の政治的活躍を一切拒否して仕官することになりました。 その後、尾張名古屋の兵庫助を訪ねて試合を挑む武芸者も多くいましたが、兵庫助はその試合のほとんどを小太刀で応じ、「おいとしぼう(お気の毒に)」という掛け声とともに悉く勝ったといいます。 尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620)、兵庫助は義直を「新陰流」の剣術および「新當流」の槍、長刀の印可を授与しました。 この時、兵庫助は自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の全てを義直に進上しました。 この後、尾張柳生の後継者となる三男・が印可を受ける際は、義直から相伝を受ける形を取らせた事で、「柳生新陰流」は尾張藩の『御流儀』として伝わり地位を不動のものとしていくのです。

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