明智 光秀 家 系図。 明智光秀の子孫は?父と母・妻と子供など家系図/出身地など出生まとめ

クリス・ペプラー、明智光秀の直系子孫だった 専門家が太鼓判― スポニチ Sponichi Annex 芸能

明智 光秀 家 系図

「明智光秀」の名を知らない人はいないでしょう。 本能寺の変で主君の織田信長を討った天下の謀反人です。 光秀自身、およそ30万石の大名であり、当時天下人にもっとも近かった信長の右腕ともいえる存在だったのです。 この程度のことはじっくり勉強しなくとも誰もが知るところのはず。 では、光秀の出自や家系図はどうでしょうか? あまり知らない人が多いのではないでしょうか。 例えば司馬遼太郎のベストセラー小説『国盗り物語』では、光秀に関わる史料は『明智軍記』に拠っています。 これが人気作となったため、それが通説となってしまったという見方もあるくらいです。 ドラマや歴史番組でもさらっとある一説が事実のように語られることが多いのが現状です。 2020年大河ドラマ『麒麟が来る』では、現在でもはっきりわかっていない光秀の前半生にスポットを当てて展開するようです。 今回はその予習としても役立つ、諸説ある光秀の出自について検証していきます。 (文=東 滋実) 【目次】• 美濃土岐明智氏説 古くから美濃にあった土岐氏の分家のひとつである明智氏の出であるという説です。 土岐明智氏だと示す史料としては、『続群書類従』所収の「土岐系図」「明智系図」のほか、『大日本史料』(東京大学出版会)の「明智氏一族宮城家相伝系図書」などがあります。 ただし、あくまでも土岐明智氏の流れを汲むというだけのようで、各史料において例えば父親が異なるなど、細部をみるとかなり異なっているようです。 『続群書類従』所収「土岐系図」「明智系図」のケース 『続群書類従』所収の「土岐系図」 「土岐系図」には、初代美濃守護の土岐頼貞(1271~1339年)を祖とし、ずっと下って光國の子として系図に記されています。 また、「明智系図」の内容も概ね「土岐系図」と同じですが、光秀の父が國ではなく、光隆とされています。 「明智氏一族宮城家相伝系図書」のケース 『大日本史料』(東京大学出版会)に収録されている「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、「土岐系図」に祖としてあった土岐頼貞の子孫・土岐頼弘からはじまり、光秀は光綱の子として記されています。 同史料の系図の後には次のような記述が続いています。 「享禄元年戌子八月十七日、生於石津郡多羅云云、多羅ハ 進士家ノ居城也、或ハ生於 明智城共云云、母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也、名ヲ美佐保ト云、傳曰、光秀、實ハ妹聟進士山岸解由左右門尉信周之次男也、信周ハ長江信連ノ子也、光秀之實母ハ光綱之妹也、進士家ハ於濃州、號長江家、依領郡上郡長江之庄也(後略)」 光秀が生まれた場所については美濃国石津郡多羅の進士家の居城(多羅城)と明智城(明智長山城)との2つの説を挙げ、「傳曰」つまり「こういう説もありますよ」と前置きした上で、光秀の実母は明智光綱の妹であり、父は 進士信周。 光秀はその次男であると書かれています。 原文の後半は省略していますが、このあとには、光秀の母の兄・光綱は病弱で子どもが生まれず、そのため光継(または頼典)が光秀を養子に引き取って家督を譲ったとあります。 『明智軍記』のケース その他、系図ではなく江戸時代の軍記物である『明智軍記』もこの説と同様です。 これは信用できる書物ではありませんが、小説やドラマなど、世間で知られる光秀の出自はこれを出典とするものが多いです。 その他の説 若狭小浜の刀鍛冶冬広の次男説 『若州観跡録』によると、光秀は若狭小浜の刀鍛冶である藤原冬広の次男とされています。 これによると光秀は幼少期から刀鍛冶の仕事を嫌い、兵法を学んで「明智十兵衛」と名乗り、佐々木氏の使者として織田に赴いたときに信長に見出されたということです。 この説は複数ある説のうちでも通説からもっとも程遠く、光秀が士分ですらないというのが印象的です。 美濃明智の人・御門重兵衛説 江戸時代の国学者の天野信景が書いた随筆『塩尻』には、光秀がはじめ「御門重兵衛」と名乗り、使者として織田へ赴いた際に信長に気に入られ、その後「明智」を名乗るようになったとあります。 名前以外の内容については上述の『若州観跡録』とほぼ同じ展開となっています。 なぜ「土岐明智氏」が有力なのか 系図というものは身分がはっきりしない層ほど勝手にどこそこから引っ張ってきてつなぎ関係があるように作り変えたり、というように、それを以ってして断定できるものではありません。 また俗書で誤謬が多いと悪評高い『明智軍記』も土岐明智氏を示す証拠のひとつであるというのも、「う~ん……」と頭を抱えてしまう問題です。 しかしそれでも土岐明智氏説が支持されるのは、ほかに裏付けとなる史料がいくつかあるからでしょう。 その裏付けを以降でじっくり見ていきましょう。 土岐氏と桔梗の紋 そもそも土岐氏とは何者でしょうか。 実は清和源氏の流れを汲み、源頼光を祖とする平安末期から続く名門の家系です。 土岐氏を名乗ったのは土岐光衡です。 美濃源氏の土岐氏は長い間美濃国の守護を務めており、鎌倉幕府では御家人。 室町幕府では三管領四職家に次ぐ家格でした。 まずは光秀と土岐氏のつながりを示すものに明智氏の家紋があります。 土岐氏が採用した家紋は「土岐桔梗」ですが、これは明智氏も用いていました。 土岐宗家だけでなく、明智をはじめとした庶流も桔梗紋を用いることが多かったとか。 光秀の家紋は当時黒が多かったなかで珍しい水色の紋で、「水色桔梗」とも呼ばれます。 この土岐桔梗に意味を見出しているのが明智憲三郎氏で、『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)の中で、「土岐桔梗一揆」と呼ばれる戦闘集団を土岐一族が形成していたことから、土岐氏がいくつもの分家、支流に分かれても一族の結束は強固であったとしています。 「立入左京入道隆佐記」の記述から 次に、立入宗継(たてりむねつぐ)の日記『立入左京入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』の中にも、光秀が土岐氏であったヒントが隠されています。 立入宗継は光秀と同時代に生きた人物で、朝廷の禁裏御蔵職をあずかった商人および官人でした。 立入宗継の肖像画 「とき」はすなわち「土岐氏」。 光秀は土岐氏の「随分衆」、つまり身分の高い人物だったということです。 少なくとも同時代に生きてつながりを持っていた立入宗継は光秀を「土岐氏である」と認識していたことがわかります。 誰かからそう聞いたのか、光秀本人から土岐氏の出であると聞いたのかはわかりませんが、土岐明智氏説を補強する材料となるでしょう。 愛宕百韻 最後に、「土岐氏」とのつながりで切り離せないのが「愛宕百韻」です。 光秀が本能寺の変の少し前、5月24日(あるいは28日)に愛宕山で開かれた連歌会で詠んだ歌です。 最初の句である発句で光秀が以下のように詠んだことで有名です。 ときは今 あめが下な(し)る 五月哉 この句は「あめが下なる」か「あめが下しる」かによって解釈が変わり、「下しる」の場合、光秀が本能寺の変の前に天下を取ろうと決意した句であると解釈されます。 「ときは今」とは、「時は今」と「土岐は今」の両方の意味がかかり、この句の解釈は「土岐氏が天下を治める五月となった」または「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月だ」となります。 どちらにせよ土岐氏と結びつけることができるわけです。 この句の解釈として「とき=土岐」で都合がいいのは秀吉で、率先して光秀が野望を持って天下簒奪を目論んだ証拠としてあげつらっていたわけですが、謀反を企てる人間がわざわざこんなところに証拠を残すとは考えにくいように思えます。 光秀が「とき」という言葉に「土岐氏」という意味を込めたかどうか、どちらも考えられますが、野望があったか否かは別として光秀が土岐氏であることを誇りに思い、自身の出自に並々ならぬ思いがあったことは十分考えられます。 もともと名門であった土岐氏は美濃守護職を家臣の斎藤道三に奪われ、土岐の当主であった土岐頼芸(よりあき)は追放されてしまいました。 こうして下克上により土岐氏は没落してしまったわけです。 光秀が土岐明智氏のなかでどれほどの身分だったかどうかはわかりませんが、明智氏も斎藤道三親子の御家騒動に巻き込まれる形で一気に牢人の身に落ちぶれてしまうわけです。 庶流ではあっても名門の出を誇りに思っていたなら、自分がどうにかして土岐氏を立て直したいという思いもあったでしょう。 「愛宕百韻」にもそういう気持ちが込められているとも考えられそうです。 まとめ:本当に「ときの随分衆」だったといえるのか? 最後に触れておきたいのは、『立入左京入道隆佐記』に記してあるように、光秀は本当に「ときの随分衆」だったのかという点です。 『明智軍記』や『美濃国諸旧記』は光秀が明智城に住んでいたと記していますが、土岐明智氏本家の流れであったかは怪しいところです。 そもそも光秀の出自がはっきりしない以上に、光秀の父の名すら不明確なのです。 光綱、光隆、光國。 これについて高柳光寿氏は『明智光秀』(吉川弘文館)の中で、系図は大体出自の証拠としては使えないことを挙げつつ、以下のように解釈しています。 「光秀はその父の名さえはっきりしないのである。 ということは光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生れた当時は文献に出て来るほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が広く世に知られるに至ったのであり(明智荘のことは知られていたが)、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こしたということでもあったのである」 系図は確かに出自を探る手段としては用いることができますが、それを以って「これが正しい」と断言することはできません。 今回複数の史料をあたりつつ諸説ある出自を紹介してきましたが、やはり無難にまとめるとしたら「光秀は土岐明智氏の出である」と言える程度でしょうか。 「ときの随分衆」であったかどうか、果たして本当に明智城に住んでいたのかどうか。 高柳氏が言うように、光秀が有名になってから作られた説も複数あると思われ、これ以上は良質な史料が新たに見つかるのを待つしかないでしょう。 【参考文献】• 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。

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明智光秀の家系とその子孫

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天下布武を掲げ戦国乱世を終息させようとした織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽柴秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます・いちます)とともに 織田家五大将の一人に数えられた明智光秀(あけちみつひで)。 日本の中心であった京都を抑え、畿内から東海、北陸に巨大な領土を保有し、地方平定戦に乗り出した直後の織田信長を明智光秀は戦力的空白を突いてこれを自刃に追い込み、わずかに11日間ながら天下人になりました。 謀叛人、裏切り者などのありがたくない呼び名で知られることも多い光秀ですが、その卓越した軍事的才能、公明正大な行政手腕、攻守ともに手堅い戦場での采配、和歌や連歌に通じた文化人でもあったと伝えられる一流人物・明智光秀の子供たちや子孫は本能寺の変以降、どのような運命を辿ったのでしょうか? まずは光秀と 正室・煕子(ひろこ)の子供たちから見ていきましょう。 『明智軍記』に基づく家系図 明智光秀の出自は謎に包まれていますが、子女もまだ謎が多く、明智光秀に何人の子供がいたのか明確に分かっていません。 ここでは、江戸時代中期に記された明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』をもとに簡単な家系図をご紹介いたします。 明智光秀と正室・煕子の娘たち 明智光秀には江戸元禄時代に書かれたと言われる「明智軍記」では 三男四女、「明智系図」では 六男七女(二人は養女)の子供がいたと言われています。 反逆者として敗北し、後の天下人によって完全に悪人とされた光秀には、勝者の歴史である戦国、江戸時代の文献に正確な歴史的史料が残ることは難しかったのでしょう。 このため史料に記述が残る人物について、具体的に紹介しておきます。 息子・明智光慶 明智光秀の嫡男(正室との間にできた年長の子供)は光慶(みつよし)と伝えられていますが、 生年不詳の上に元服や初陣の記録もなく、唯一光秀主催の歌会で光慶が結句を詠んだ記録があるだけです。 このため最期も亀山城での病死、坂本城での自害など諸説があり、また山城国の妙心寺や和泉国の本徳寺の僧となったと言う生存説も存在します。 次男・明智自然 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」で田中レイくんが演じた明智自然(あけちじねん)。 可愛い演技で視聴者の心を一瞬のうちに鷲掴みにしたようですが、この明智自然とは誰のことなのでしょうか? 明智軍記では光秀の次男・十次郎光泰(じゅうじろうみつやす)の幼名が自然だと記されており、山崎の合戦ののち明智秀満らが坂本城で自害したときに死去したと伝えられています。 他にも明智系図、明智軍記に仏門へ帰依した者の名が何人か記されていますが、その行く末が確認されている者はいません。 現代の子孫 クリス・ペプラーさん 山崎の合戦の敗戦で光秀の血をひく人物を多く失いましたが、その中からしぶとく生き残り、現代に光秀の血を受け継いでいる人物がいます。 ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つクリス・ペプラー さんです。 テレビ番組のナレーションやFMラジオでのDJなどのレギュラーを多く持ち、落ち着いた美声で最近は声優の仕事もされています。 クリス・ペプラー さんの母方の祖母が美濃守護大名・土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝えられており、 この頼勝には光秀の実子説があります。 真偽のほどはともかく、母方が土岐氏を名乗っているのであれば、光秀と同じ土岐氏の血筋であることは間違いなさそうです。 細川隆元、細川隆一郎 明智珠ことガラシャが嫁いだ細川家にはその血を受け継いだ末裔の人物が存在しています。 細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。 歯に衣を着せぬしゃべりで時事、政治についての対談や記事で人気があり、天下のご意見番の異名もとっていました。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙(ほそかわもりひろ)は細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主で、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員も勤めた政治家です。 肥後細川家は8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えたため、ここで光秀の血は途絶えたのですが、 護煕の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔になるため、護煕にも明智光秀の血が流れていることになります。 坂本龍馬も? 他には 幕末に活躍した土佐藩士の坂本龍馬の家紋も桔梗紋のため、明智光秀の子孫ではと小説や解説書などで取り上げられました。 これは坂本城で自害したとされる明智秀満が落ち延びて、土佐の長宗我部家を頼りここに定住し、その子孫が坂本家と言う伝承があります。 しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。

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大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀とは?家紋や家系図、城は?

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明智光綱 あけち-みつつな の兄弟には、 がおり、斎藤道三の正室になっています。 この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。 この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・ の命にて、 あけち-みつやす が明智城に入って後見したともされます。 その明智光安 は、斎藤道三の子・ と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。 このとき、明智光安の子とされる は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。 お牧の方 は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、 の娘とも伝わります。 明智光秀が老母を人質として敵に出と言う話が江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。 なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。 千草 明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。 明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。 なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。 ただし、1546年、明智光秀 明智十兵衛光秀 が18歳のときに、千草 山岸光信の娘、16歳 と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。 子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。 もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。 妻木煕子 つまき-ひろこ と、明智煕子 あけち-ひろこ とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕 妻木勘解由左衛門範煕 の娘と考えられます。 一説によると1530年頃に生まれており、 の娘とする説もあります。 有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」 ほうそう=天然痘 にかかり、左の頬 ほほ に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。 そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。 一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子 よしこ を代わりに嫁がせようとしたとも・・。 しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。 容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。 1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の のもとまで逃れたとされます。 越前で 主の に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。 要するに、優遇されていたとは言えず、生活は苦しかったと言います。 ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。 当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。 そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。 1563年には、3女 4娘 ・ のちの が越前にて生まれました。 1571年、 のあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・ が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。 1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を から賜わります。 しかし、 との の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。 このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛 まなせどうさんまさもり の屋敷にて療養しました。 死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。 その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を にお願いしています。 また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。 しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。 享年46 享年36、享年42 ともされます。 戒名は福月真祐大姉。 墓所は、 からほど近い明智家の菩提寺「 」にあります。 それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。 本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。 伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。 服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。 しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻 継室 として入ったする場合もあります。 別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。 この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子 明智煕子 の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。 また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻 継室 だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。 そして、 のあと、 が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。 色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。 ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。 側室・喜多村保光の娘 明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。 その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。 喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。 その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。 この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。 そして、成長すると喜多村保之と称しました。 1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。 この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。 側室・原仙仁の娘 原仙仁の娘ですが、肥後・細川家 の嫁ぎ先 にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。 父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。 また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち で有名な大石良雄 の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。 なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。 この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。 ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。 よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。 この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「 」として明智光秀の与力を務めていますが、 の変にて討死しました。 御ツマキ 御ツマキ おつまき は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。 明智光秀の実の妹 妻木煕子の妹 いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性 女中?側室? です。 1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。 1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。 ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。 また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。 この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「 」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。 この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。 しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。 その翌年、本能寺の変となりました。 御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。 なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。 そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。 明智光秀の子供 明智軍記 3男4女 長女:明智光春の妻 の正室から、明智秀満の正室 次女: の妻 三女: の妻(細川ガラシャ) 四女: の妻 長男:明智光慶 次男:明智光泰 明智十次郎 三男:明智乙寿丸 鈴木叢書 そうしょ の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女 長女 養女 :菅沼定盈の妻 三宅長閑の娘) 次女 養女 :桜井家次の妻 三宅長閑の娘) 三女: の妻 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ) 五女: の妻 六女:川勝丹波守の妻 長男:玄琳 妙心寺の僧侶 次男:安古丸 で討死 三男:不立 天龍寺の僧侶 七女:井戸三十郎の妻 四男:十内 坂本城落城のときに自刃 五男:自然 坂本城落城のときに自刃 六男:喜多村保之 江戸町年寄 不明:定頼 上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。 織田信澄の妻 細川忠興の妻 織田信澄の妻 明智光秀の娘 の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いありません。 なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ 明智玉 と言う事になります。 細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。 明智光慶 明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎 明智十兵衛 とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。 が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。 本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。 この明智光慶もたくさんの説があります。 本能寺の変のときには、丹波・ にいたとも、坂本城にいたともされます。 明智光秀が に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。 明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺 京都市右京区花園 の住職・玄琳になったとも色々な話があります。 千葉県市原市不入斗 いりやまず には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。 齋藤利満・ の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。 なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。 桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子 ツ子 の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。 千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼 万喜頼春 がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。 しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重 明智頼重 のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。 そのため、明智一族の親戚が不入斗 いりやまず にいたと考えるのが自然でしょうか? 明智自然 明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然 あけち-じねん は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。 明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。 鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。 また、別の説では、明智光泰 あけち-みつやす は、一時は、大和・ 主である の養子・筒井定頼 自然丸 になったともあります。 ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。

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