オセロ ニア グリム 兄弟。 『グリムの定理』の概略をおおしえください。

逆転オセロニア ガチャの当たり確定演出は?

オセロ ニア グリム 兄弟

凡例 [ ] 以下では『子供と家庭のための童話集』第7版の収録作品を基本とし、各項にそれぞれ第7版における通し番号(KHM番号)を挙げた。 また初版から収録されているものは初版時の通し番号も記載した。 ただし、以降の版と違い、初版では第1巻(86番まで)と第2巻はそれぞれ分けて通し番号が付与されているが、ここでは便宜上通巻に直した上で記載している。 例えば初版第2巻の5番はここでは91番として掲示している。 初版から第6版までの間に削除されたものは別に分け、掲載時の通し番号にaをつけて区別している。 版間の差し替えや移動などは備考欄に記した(その他の備考欄の注釈は主として『初版 グリム童話集』の注釈によっている)。 タイトルが 太字になっているものは「小さい版」(普及版)に収録されたものを示す。 なおKHM210までに入らない遺稿や断片は割愛した。 メルヒェンの取材源となった人物のうち、特に主要なものの概要は以下の通りである(も参照)。 ヴィルト家 の薬剤師ルードルフ・ヴィルト(1747-1814) の一家。 ルードルフはスイスの出身で、カッセルに移り住んだのちドロテーア・カタリーナ・フーバー(1752-1823)と結婚した(なお、ドイツでは薬剤師は医師と並んで社会的地位の高い職業である )。 グレートヒェン(1787-1819)、リゼッテ(1782-1858)、ドロテーア ドルトヒェン、1793-1867 、マリー(ミー、1794-1812)の4人の娘がいる。 1805年よりカッセルに移り住んだグリム兄弟の隣人であり、娘たちはグリム兄弟の妹ロッテの友人でもあった。 グリムはドロテーア夫人と娘たちから30あまりのメルヒェンの提供をうけており、この一家からの話にはすべて「」との注釈がつけられている。 その後ヴィルヘルム・グリムは主な提供者の一人であったドルトヒェンと結婚した。 ハッセンプフルーク家 の高官の一家で、あまり詳しいことはわかっていないが、夫人のマリーア・マグダレーナ・ハッセンプフルーク(1767-1840)はフランスから逃れてきたユグノーの出であり、一家ではフランス語が話されていた。 娘にマリー(1788-1856)、ジャネット(1791-1860)、アマーリエ(1800-1871)がいるが、この「マリー」はヴィルヘルム・グリムの息子ヘルマンの誤解によって、ヴィルト家に住んでいた老嬢マリーと長い間取り違えられていた。 娘たちはやはりグリム兄弟の妹ロッテの友人で、グリムは彼女たちから30あまりのメルヒェンの提供を受けているが、フランス由来と思われるものが多いため後の版で削除されたものもある。 フリーデリケ・マンネル(1783-1833) 近郊アレンドルフの牧師の娘で、初版に5篇のメルヒェンを提供。 『』にも提供を行っている。 フランス語を自由に操り非常に文学的教養が高かった。 ドロテーア・フィーマン(フィーメンニン、1755-1815) 15篇のメルヒェンを提供。 カッセル地方の仕立て屋の妻であったが、野菜売りをしていたため、グリムは当初農家の夫人と誤解していた。 グリム兄弟が生前に情報源として名を挙げた唯一の人物で、ドイツ生粋のメルヒェンの語り手として理想化されてきたが、のちの研究で彼女は旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたの家の出で、フランス語を操り文学的教養も高かったことが明らかになった。 ハクストハウゼン家 ヘッセンの隣国の貴族の一家で、マリアンネ(1755-1829)、アウグスト(1792-1866)、ルドヴィーネ(1795-1872)、アンナ(1800-1877)などが、住んでいたパーダーボルン地方の話を20ほど提供している。 初版より一貫して巻頭に置かれる。 ジーベルトから送られたシュヴァルム地方の話、メクレンブルクの話、フィーマンから聞いたツヴェールンの話の合成からなる。 6 - Der treue Johannes ハクストハウゼン家 第2版で「夜うぐいすとめくらとかげの話」に代わって追加。 7 7 Der gute Handel ドロテーア・フィーマン 8 - Der wunderliche Spielmann の話。 第2版で「ほうちょうをもった手」に代わって追加。 12 12 Rapunzel フリードリヒ・シュルツ 『小説集』(1790年) シュルツの小説はさらにフランスのド・ラ・フォルスの妖精物語「ペルシネット」 Persinette の翻訳であったことが明らかになっている。 14 14 Die drei Spinnerinnen ジャネット・ハッセンプフルーク 初版では「苦しみの亜麻つむぎ」。 第2版以降はパウル・ヴィーガンドから送られた話が中心となっている。 登場する母は第3版まで実母であったが、第4版より継母に変えられている。 17 17 Die weisse Schlange ハッセンプフルーク家 18 18 Strohhalm, Kohle und Bohne ドロテーア・カタリーナ・ヴィルト 第3版以降は文献からの内容に従っている。 19 19 Von dem Fischer un syner Fru 「ねずの木の話」 KHM47 とともルンゲが北ドイツの方言で書きとめたものをもとにしており、グリム兄弟が最初期に手に入れたメルヒェン。 20 20 Das tapfere Schneiderlein ハッセンプフルーク家 ヘッセンの話の断片。 21 21 (シンデレラ) Aschenputtel マールブルクの救貧院の老女 第2版以降では二つのヘッセン地方の話と合成。 第2版で「子供たちが屠殺ごっこをした話」に代わって追加。 グリムの注にツヴェールンの話とある。 24 24 Frau Holle ドルトヒェン・ヴィルト 第2版以降はのゴールドマンの話と合成。 25 25 Die sieben Raben ハッセンプフルーク家 第2版以降はの話と合成。 先行作品では赤頭巾は狼に食べられたきりだが、グリムは「狼と七匹の子ヤギ」の結末を組み合わせてハッピーエンドにしている。 27 - Die Bremer Stadtmusikanten 第2版で「死神とがちょうの番人」に代わって追加。 グリムの注に「パーダーボルン地方の二つの話による」とある。 第3版でドロテーア・フィーマンからの話で結末を補足。 28 28 Der singende Knochen ドルトヒェン・ヴィルト 29 29 Der Teufel mit den drei goldenen Haaren ドロテーア・フィーマン 初版はアマーリエ・ハッセンプフルークからの話になっており、第2版以降でフィーマンによる同様の話に差し替えられている。 32 32 Der gescheite Hans ハッセンプフルーク家? 33 - Die drei Sprachen のハンス・トルファー 第2版で「長靴をはいた猫」に代わって追加。 34 - Die kluge Else ドロテーア・フィーマン 第2版で「ハンスのトリーネ」に代わって追加。 「ヴィクラム『道中よもやま話』(1555年)、キルヒホフ『ヴェンド人の怒り』(1563年)などから合成している。 37 - Daumesdick エバーハルト・フォン・グローテ? ヤーコプは恩師であるに当てた書簡で、子供のころから聞いていて最も好きな話のひとつと書いている。 41 41 Herr Korbes ジャネット・ハッセンプフルーク 42 42 Der Herr Gevatter アマーリエ・ハッセンプフルーク 第3版以降でルートヴィヒ・アウアーバッハの本により補足される。 43 - Frau Trude マイアー・テディ 『女性文庫』(1823年) 第3版で「奇妙なおよばれ」に代わって追加。 44 44 Der Gevatter Tod マリー・エリザベート・ヴィルト 第2版以降でフリードリヒ・グスタフ・シリングの本から結末が付け加えられる。 45 45 Daumerlings Wanderschaft マリー・ハッセンプフルーク 第2版以降でヘッセンの話、パーダーボルンの話と合成される。 46 46 Fitchers Vogel フリーデリケ・マンネル、ドルトヒェン・ヴィルト 二人からの話を合成したもの。 47 47 Von dem Machandelboom フィリップ・オットー・ルンゲ 「漁師とおかみ」 KHM19 とともルンゲが北ドイツのポンメルン方言で書きとめたものに基づく。 48 48 Der alte Sultan ニーダーヘッセン地方の話。 第2版以降でハクストハウゼン家によるパーダーボルン地方の話によって補われる。 KHM 51 - 100 [ ] KHM 初版 タイトル 原題 取材源 備考 51 51 Fundevogel フリーデリケ・マンネル マンネルからシュヴァルム地方の話として送られたもので、もとの提供者は不明。 53 53 Sneewittchen マリー・ハッセンプフルーク 草稿では白雪姫を生き返らせるのは彼女の父親で、フェルディナント・ジーベルトの話を取り入れ結末を変更している。 また第2版以降で母親が継母に変えられる。 初版では「ナプキンと背嚢と砲蓋と角笛の話」としてより短いものが37番に収められている。 55 55 Rumpelstilzchen ドルトヒェン・ヴィルト、ハッセンプフルーク家 二つの情報源からの話を合成、2版以降ではリゼッテ・ヴィルトからの話を取り入れ結末が変更されている。 56 56 Der liebste Roland ドルトヒェン・ヴィルト 57 57 Der goldene Vogel マールブルクの救貧院の老女 第2版以降でフィーマンの話から補足。 58 58 Der Hund und der Sperling グレートヒェン・ヴィルト 初版では「忠実な雀の名付け親」のタイトルで、第2版でフィーマンの話から後半を差し替え改題。 59 - Der Frieder und das Katherlieschen ドロテーア・フィーマン 第2版で「白鳥王子」に代わって追加。 グリムの注にツヴェールン地方の話とある。 第2版で「金のたまご」に代わって追加。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 第2版でフィーマンからのものになり独立。 65 65 Allerleirauh カール・ネーリッヒ 『シリー』(1798年)、ドルトヒェン・ヴィルト 長編小説の一挿話とヴィルトからの話の融合。 初版では主人公の娘は実父の王と結婚するが、第2版では結婚相手は別の王になる。 ファーレンシュタインがのヴェンデンランデで聞いた話という。 68 - De Gaudeif un sien Meester イェンニー・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ イェンニーはの姉。 第2版で「夏の庭と冬の庭」に変わって追加。 69 69 Jorinde und Joringel J. ユング=シュティリング 『ヘンリヒ・シュティリングの青春』(1777年) ユング=シュティリングの自伝的小説から。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 71 - Sechse kommen durch die ganze Welt ドロテーア・フィーマン? 第2版で「ネズミ皮の王女」に代わって追加。 グリムの注にツヴェールン地方の話とある。 72 - Der Wolf und der Mensch ハクストハウゼン家 第2版で「梨の小僧は落ちない」に代わって追加。 ハクストハウゼン家によるパーダーボルン地方の話と、バイエルン地方の話を併せる。 73 - Der Wolf und der Fuchs 第2版で「人ごろし城」に代わって追加。 グリムの注にヘッセンの話とある。 74 - Der Fuchs und die Frau Gevatterin 第2版で「泉の子ヨハネスと泉の子カスパール」に代わって追加。 グリムの注にドイツ-地方の話とある。 75 - Der Fuchs und die Katze 第2版で「フェニックス鳥」に代わって追加。 グリムの注にシュヴァイフの話とある。 76 76 Die Nelke ドロテーア・フィーマン 初版はハッセンプフルーク家からの話で、第2版でフィーマンからの話に変えられる。 77 - Die kluge Gretel アンドレアス・シュトロブル『新たに色づけされた復活祭の卵』(1700年) 第2版で「さしもの師とろくろ師の話」に代わって追加。 グリムの注にヘッセンの話とある。 81 - Bruder Lustig ゲオルク・パッシー 第2版で「鍛冶屋と悪魔」に代わって追加。 パッシーがで聞き取った話という。 82 - De Spielhansl 第2版で「三人姉妹」に代わって追加。 フリートベルクの話。 84 - Hans heiratet プレトリウス 『占い棒』(1667年) 第2版で「お姑」に代わって追加。 85 63 Die Goldkinder フリーデリケ・マンネル 初版で63番だったものを移動。 87 87 Der Arme und der Reiche フェルディナント・ジーベルト 初版より一貫して第2巻巻頭に置かれる。 93 93 Die Rabe ハノーファーの牧師ゴールトマン 94 94 Die kluge Bauerntochter ドロテーア・フィーマン 95 - Der alte Hildebrand 第2版で「ガラス瓶の中の化け物」(KHM99)に代わって追加。 による話。 98 98 Doktor Allwissend ドロテーア・フィーマン 99 94 Der Geist im Glas ベーケンドルフの仕立て屋 初版第2巻の9番(通巻で94番目)から第2版で通巻99番に移動。 108 108 Hans mein Igel ドロテーア・フィーマン 109 109 Das Totenhemdchen フェルディナント・フィリップ・グリム? フェルディナントはグリム兄弟の弟(四男)。 グリムの注釈にはバイエルンからとある。 114 114 Vom klugen Schneiderlein フェルディナント・ジーベルト? グリムの注にシュヴァルム地方の話とある。 115 115 Die klare Sonne bringt's an den Tag ドロテーア・フィーマン 116 116 Das blaue Licht ハクストハウゼン家? グリムの注にメクレンブルク地方の話とある。 117 117 Das eigensinnige Kind ヘッセンの口承。 118 118 Die drei Feldscherer ドロテーア・フィーマン 119 - Die sieben Schwaben キルヒホフ 『ヴェンド人の怒り』(1563年) 第2版で「怠け者と働き者」に代わって追加。 120 120 Die drei Handwerksburschen ドロテーア・フィーマン フィーマンからの話とライネ川地方の話を合成。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 122 - Der Krautesel 第2版で「長い鼻」に代わって追加。 グリムの注にドイツ-ベーメン地方の話とある。 グリムの注にシュヴァルム地方の話とある。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 132 132 Der Fuchs und das Pferd ハクストハウゼン家 グリムの注にの話とある。 133 133 Die zertanzten Schuhe イェンニー・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ 134 134 Die sechs Diener ハクストハウゼン家 パーダーボルン地方の話。 136 - Der Eisenhans フリートムント・フォン・アルニム 『山岳で収集した100の昔話』(1834年) 第7版で「山男」に代わって追加。 137 137 De drei schwatten Prinzessinnen ハクストハウゼン家 グリムの注にミュンスター地方の話とあり、方言で書かれている。 140 140 Das Hausgesinde ハクストハウゼン家 グリムの注にパーダーボルン地方の話とあり、方言で書かれている。 ミュンスターラントの話と、おそらくハクストハウゼン家からのパーダーボルン地方の話を合成。 144 144 Das Eselein 『14世紀のシュトラースブルク手稿』 14世紀のラテン語詩から。 グリムの注にの話とある。 153 83 Die Sterntaler 『見えない桟敷』 初版では83番に「貧しい女の子」として収録。 156 - Die Schlickerlinge グリムの注にメクレンブルクの話とある。 157 35 Der Sperling und seine vier Kinder ヨハン・バルタザール・シュッピウス 『教訓集』(1663年) 初版35番だったものを第2版で移動。 162 - Der kluge Knecht 『詩編101番の解釈』(1534年) 第3版で追加。 164 - Der faule Heinz オイヒャリウス・アイエリング 『ことわざの宝庫』(1601年) 第3版で追加。 165 - Der Vogel Greif フリードリヒ・シュミット 第3版で追加。 による話。 166 - Der starke Hans カール・ルドルフ・ハーゲンバッハ 第3版で追加。 アレマン語による話。 168 - Die hagere Liese ハンス・ヴィルヘルム・キルヒホフ 『ヴェンド人の怒り』(1563年) 第4版で追加。 169 - Das Waldhaus カール・ゲデケ 第4版で追加。 170 - Lieb und Leid teilen イェルク・ヴィクラム 『道中よもやま話』(1555年) 第4版で追加。 172 - Die Scholle ヨーハン・ヤーコプ・ニコラウス・ムソイス 『メクレンブルク史協会年鑑』(1840年) 第4版で追加。 173 - Rohrdommel und Wiedehopf ヨーハン・ヤーコプ・ニコラウス・ムソイス 『メクレンブルク史協会年鑑』(1840年) 第4版で追加。 174 - Die Eule ハンス・ヴィルヘルム・キルヒホフ 『ヴェンド人の怒り』(1563年) 第4版で追加。 175 - Der Mond ハインリヒ・プレーレ 『若者のための昔話集』(1854年) 第7版で「不幸せ」(第4版で追加)に代わって追加。 176 - Die Lebenszeit ツヴェールンの農夫 第4版で追加。 177 - Die Boten des Todes ハンス・ヴィルヘルム・キルヒホフ 『ヴェンド人の怒り』(1563年) 第4版で追加。 178 - Meister Pfriem 『最新子供図書館』(1827年) 第5版で追加。 180 - Die ungleichen Kinder Evas ハンス・ザックスの詩(1558年) 第5版で追加。 181 - Die Nixe im Teich モーリツ・ハウプト 『ドイツ古代史』(1842年) 第5版で追加。 182 - Die Geschenke des kleinen Volkes エーミール・ゾンマー 『ザクセンとテューリンゲンの伝説集』(1846年) 第6版で「えんどう豆の試練」(第5版で追加)に代わって追加。 183 - Der Riese und der Schneider フランツ・ツィスカ 『オーストリアの昔話』(1822年) 第5版で追加。 184 - Der Nagel ルートヴィヒ・アウルバッハー 『若者のための小冊子』(1834年) 第5版で追加。 185 - Der arme Junge im Grab ルートヴィヒ・アウルバッハー 『若者のための小冊子』(1834年) 第5版で追加。 186 - Die wahre Braut モーリツ・ハウプト 『ドイツ古代史』(1842年) 第5版で追加。 187 - Der Hase und der Igel ヴィルヘルム・シュレーダー 『ハノーファー民衆誌』(1840年) 第5版で追加。 188 - Spindel, Weberschiffchen und Nadel ルートヴィヒ・アウルバッハー 『若者のための小冊子』(1834年) 第5版で追加。 189 - Der Bauer und der Teufel ルートヴィヒ・アウルバッハー 『若者のための小冊子』(1834年) 第5版で追加。 190 - Die Brosamen auf dem Tisch ヴィルヘルム・ヴァッカーナーゲル 『ドイツ古代誌』(1843年) 第5版で追加。 192 - Der Meisterdieb フリードリヒ・シュテルツィング 『ドイツ古代誌』(1843年) 第5版で追加。 193 - Der Trommler カール・ゲデケ 第5版で追加。 196 - Oll Rinkrank エーレントラウト 『フリジア文庫』(1849年) 第6版で追加。 197 - Die Kristallkugel フリートムント・フォン・アルニム 『山岳で収集した100の昔話』(1834年) 第6版で追加。 198 - Jungfrau Maleen カール・ミュレンホフの伝説集(1845年) 第6版で追加。 KHM 201 -210(子供の聖者伝) [ ] KHM タイトル 原題 取材源 備考 201 Der heilige Joseph im Walde ハクストハウゼン家 第2版で追加。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 203 Die Rose ハクストハウゼン家 第2版で追加。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 205 Gottes Speise ハクストハウゼン家 第2版で追加。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 グリムの注にパーダーボルン地方の話とある。 グリムの注にヘッセンの話とある。 209 Die himmlische Hochzeit 初版では第2巻の35番(通算で121番目)。 グリムの注にメクレンブルク地方の話とある。 12世紀頃からある聖者伝。 210 Die Haselrute フランツ・ヨーゼフ・フォンブンの民間伝説集(1847年) 第6版より追加。 第7版までに削除されたもの [ ] KHM タイトル 原題 取材源 備考 6a Von der Nachtigall und der Blindschleiche フランスの本 1808年 第2版で「忠臣ヨハネス」に差し替え。 8a The hand with the measurer スコットランドの伝承 第2版で「奇妙な音楽家」に差し替え。 16a Herr Fix und Fertig ヨーハン・フリードリヒ・クラウゼ 第2版で「三枚の蛇の葉」に差し替え。 22a Wie Kinder Schlachtens miteinander gespielt haben ヨハネス・プレトーリウス 『冒険の福引壷』(1669年) 第2版で「なぞなぞ」に差し替え。 33a Der gestiefelte Kater ジャネット・ハッセンプフルーク の童話集にあるものと逐語的に似ていたため、第2版で「三つの言葉」に差し替えられる。 34a Hansens Trine ドルトヒェン・ヴィルト 第2版で「知恵者エルゼ」に差し替えられる。 43a Die wunderliche Gasterei アマーリエ・カッセンプフルーク 第3版で「トゥルーデおばさん」に差し替え。 54a Hans Dumm ハッセンプフルーク家 第2版で「背嚢と帽子と角笛」に差し替え。 62a Blaubart ハッセンプフルーク家 ペローとの関連が明らかなため、第2版で「蜂の女王」に差し替えられる。 64a ぼけなすの話 Von dem Dummling グレートヒェン・ヴィルト他 「白い鳩」「蜜蜂の女王」「三枚の鳥の羽」「黄金のがちょう」の4つからなる話で、「白い鳩」を除いて第2版以降それぞれ独立した話になる。 66a Hurleburlebutz ヨハンナ・ハッセンプフルーク 第2版で「子ウサギのおよめさん」に差し替え。 68a Von den Sommer- und Wintergarten フェルディナント・ジーベルト 第2版で「どろぼう名人とその大先生」に差し替えられ、「鳴いて飛び跳ねるひばり」 KHM88 の注に入れられる。 70a Der Okerlo ジャネット・ハッセンプフルーク の話との類似のため、第2版で「三人のしあわせもの」に差し替えられ、「めっけ鳥」(KHM51)の注に入れられる。 71a Prinzessin Maeusehaut ヴィルト家 ペローの「」との関連が明らかなため、第2版で 六人男、世界を股にかける」に差し替え。 72a Das Birnli will nit fallen スイスの口承。 唯一の韻文であったため、第2版で「狼と人間」に差し替えられる。 73a Das Mordschloss オランダ人女性 オランダの話であること、またペローの「青髭」との関連性から、第2版で「狼と狐」に差し替えられる。 74a Von Johannes-Wassersprung und Caspar-Wassersprung フリーデリケ・マンネル 第2版で「狼と名付けをたのんだ奥さま」に差し替えられ、「ふたり兄弟」(KHM60)の注に入れられる。 第2版で「狼と猫」に差し替えられ、「三本の金の髪の毛を持つ悪魔」の注に入れられる。 77a Vom Schreiner und Drechsler フリーデリケ・マンネル 第2版で「知恵者のグレーテル」に差し替え。 81a Der Schmidt und der Teufel マリー・ハッセンプフルーク 第2版で「のんきぼうず」に差し替え。 82a 三人姉妹 Die drei Schwestern ヨハン・カール・アウグスト・ムゼーウス 『ドイツ人の昔話』(1782年) 第2版で「道楽ハンスル」に差し替え。 ヤーコプはこの話について書簡で「口承の生き生きした感じがない」と述べている。 84a お姑 Die Schwiegermutter ハッセンプフルーク家 同家で書き留められたもの。 断片であるため、第2版で「ハンスの嫁取り」に差し替えられる。 85a (断片) Fragmente 「雪の花」「お姫様としらみ」「ヨハネス王子の話」「役に立つ膏薬」の4断片。 104a Die treuen Tiere フェルディナント・ジーベルト 初版よりシュヴァルム地方の話として置かれていたが、のちにモンゴルの話の翻訳に基づくことが判明し、第7版で「賢い人々」に差し替えられる。 グリムの注にシュヴァルム地方の話とある。 第2版で「シュヴァーベンの七人男」に差し替え。 122a Die lange Nase ドロテーア・フィーマン 第2版で「キャベツろば」に差し替えられ、同注に入れられる。 130a Der Soldat und der Schreiner ハクストハウゼン家? グリムの注にミュンスターラントの話とある。 またヤーコプからヴィルヘルムへの手紙に「私が削除したい最悪の話」として挙げている。 第2版で「一つ目二つ目三つ目」に差し替え。 136a De wilde Mann ハクストハウゼン家 方言で書かれたミュンスター地方の話。 第7版で「鉄のハンス」に差し替えられる。 143a Die Kinder in Hungersnot ヨハネス・プレトーリウス 『冒険の福引壷』(1669年) 第2版で「旅に出る」に差し替え。 152a Die heilige Frau Kummernis アンドレアス・シュトローベルの書物(1770年) 第2版で「牧童」に差し替え。 182a Die Erbsenprobe 第5版で追加され、第6版で「小人の贈りもの」に差し替え。 に同様の話「」がある。 脚注 [ ]• 小澤 1992 , 120頁。 小澤 1992 , 121頁。 小澤 1992 , 104-108頁。 『初版 グリム童話集 4』 173頁。 レレケ 1990 , 122-123頁。 小澤 1992 , 101-103頁。 レレケ 1990 , 142-146頁。 鈴木 1991 , 123頁。 『初版 グリム童話集 1』 207頁。 『初版 グリム童話集 2』 205頁。 『初版 グリム童話集 4』 87頁。 参考文献 [ ]• 高木昌史 『グリム童話を読む事典』 三交社、2002年• 『初版 グリム童話集』(1-4)吉原高志、吉原素子訳、白水社、1997年• 『グリム童話の誕生 聴くメルヒェンから読むメルヒェンへ』 朝日選書、1992年• ハインツ・レレケ 『グリム兄弟のメルヒェン』 小澤俊夫訳、岩波書店、1990年.

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オセロ ニア グリム 兄弟

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 あるとき、ぼくと妹はつながっていた。 何歳のときだったかは正確に思い出せないのだが、ぼくが9歳前後のころだったと想う。 妹の敬子は6、7歳だ。 妹とつながっていたといっても、それは虫取りに耽った一夏(ひとなつ)か、何かの他愛もない遊びに夢中になっていたときのことで、その記憶のなかでは二人を分け隔てるものは、なんらなかった。 その後、妹はぼくとつながっていることを、しばしば取り戻そうとした。 それはたとえば「お兄ちゃん、お風呂行こうよ」とか、「お兄ちゃん、ライオンになって」といった言葉の口調の甘さでわかった。 外に出るとすぐに腕につかまって歩こうともした。 それがやけに甘ったるいので、妹が兄にしか放出しないシスター・フェロモンのようなものも感じた。 ぼくのほうは、そのたびに照れた。 妹はそういう素振りを思春期になるまで発揮したが、ぼくのほうは、妹を兄の心身が養った季節がすでに過ぎ去っていることを知っていた。 何かがとともに失われていったのだ。 大正14年の「婦人公論」十月号に、がやや長めの『妹の力』を書いた。 そこで柳田が日本の村落の兄と妹が見せる独得の親しみ深さに関心を寄せたことについては、のところで指摘しておいた。 柳田はあるとき岡山の自分の故郷に久々に戻って、家々の妹が村落共同体の場で兄と自由にふるまっていることに注目し、大正時代がそういう光景を許せるようになったのは、日本の家の本来性にまつわるものがやっと回復しているせいだと判断した。 兄が男性ゆえにもたざるをえない孤独感や寂寥感のようなものを、妹が快活にふるまうことによって深く補償することが、日本の村落や家族が古代からもってきた「妹の力」だというのだ(このばあいの「妹」は妻のことではなく、まさに妹のことをいう)。 いったいどんな例を思い浮かべればいいだろう? いまは柳田民俗学の深部には入らずに言うが、これをわかりやすく理解するなら、「フーテンの寅と妹のサクラの関係」なのである。 あれが柳田の言うニッポンの兄妹の例なのである。 倍賞千恵子のサクラがときおり兄の寅さんの前で見せる、その場を救うような明るさ、寅さんがその妹に託している万幅の信頼、「それを言っちゃおしまいよ」と言う兄を「家庭」につなぎとめていく妹。 その関係がニッポンの兄妹が万葉以来秘めていた「もうひとつの家系感覚」というものなのだ。 後日談をしておく。 これがぼくの恋学(れんがく)の発祥である。 いまでも、それは変わらない。 こんな話を枕にして、では、今夜はグリム童話のことを書く。 枕に続いて兄妹の話から入ってみるが、まずもって『ヘンゼルとグレーテル』というあの童話においては、実はヘンゼルとグレーテルは一人の子供なのだということを言っておきたい。 一人の子供が兄のヘンゼルと妹のグレーテルに分身した。 その名もずばり『兄と妹』というグリム童話もあるのだが(新潮文庫版第2巻、岩波文庫版第1巻)、この話でも森に入った兄と妹は、兄が泉を飲んで鹿に変身する役割をもち、妹が魔法を解く役割を分担しながら話がすすむものの、実は兄と妹とで1セットなのである。 『六羽の白鳥』は魔法にかけられて鳥になった兄を妹がきびしい試練をうけながら助けるお話だが、結末がそうであるように、この兄妹は中世の分身レプリカントであって、ゲルマニックな合体ロボなのだ。 こういうことはグリム童話のなかではごくふつうのことで、ちっとも驚くにはあたらない。 それ以前に昔話や民話を採集したイタリアのジャンバティスタ・バジーレやフランスのやヨハン・ムゼーウスなどの再話集のなかの多くでも(この3人がグリム童話の先行者であった)、兄と妹はほぼ一心同体になっている。 分身状態だ。 いや、兄と妹だけではない。 『ヘンゼルとグレーテル』では継母と森の魔女は同一人物であり、『赤ずきん』では赤ずきんとおばあさんがほぼ同一人物である。 それらのキャラクターは口伝えの物語のなかで分かれたにすぎない。 『フーテンの寅』がそうであるように、口伝えを重視する物語(かつてなら昔話や民話や説話)には、こうした「一人で二役」、「二人でひとつ」、「お妃で魔女」ということはしょっちゅうなのだ。 そこが口伝えのいいとこだ。 寅さんもまた電話や葉書においてもつねに口で伝えられることだけを信じた。 伝えまちがいなんて恐れなかった。 むしろ口で伝えようとしないことのほうが、寅さんにとってはまちがいなのだ。 そのころの口伝えの昔話や民話では、つねに口伝え独得の編集がなされ(むろん日本も同じだが)、そのなかで最も受け入れやすい「型」に向かって話が定着していくという傾向があった。 その「型」は数え切れないほどあったわけではない。 3つとか5つとか7つといった比較的少ない「型」になっていて、その「型」をもとに、話をそれぞれふくらませることにみんなが熱中した(ウラジミール・プロップは魔法的昔話には一つの「型」しかないとまで言い切った)。 ぼくの用語でいうなら、これはさしずめの作用というものだけれど、それが昔話や民話においてはごく少数の口承用の母型として機能した。 口伝えとはそういうものなのだ。 複雑すぎるものには向いてはいない。 たとえば、そもそもの話の母型が「一人の女の子が森に行きました」というものだったとすれば(これはとてもわかりやすい母型だ。 なぜならヨーロッパの村落では、少女が森に行って日暮れまで帰ってこなかったことなど、いくらでもおこっていたからだ)、そこにお兄さんを加えれば『ヘンゼルとグレーテル』になり、二人の姉を加えると『灰かぶり姫』(シンデレラ)になったのである。 おわかりか。 口伝えはさらにヴァージョンをふやす。 もっとたくさんの兄と姉をふやせば、それがたとえば『親指小僧』となり、さらに、その女の子を森の小人たちのところに行かせれば『白雪姫』のお話になった。 あとはお察しの通り、森の中の女の子がおばあさんのところへ行ってオオカミと出会うことにさせれば、かの『赤ずきん』が仕上がっていく。 おわかりか。 昔話や民話や説話は母型(マザー)をもっていただけではなかった。 いくつかのごく容易に見いだせる法則性のようなものももっていた。 たとえばアクセル・オールリクは、民話というもの、話の導入部ではたいてい最前部を優位にし、クライマックスでは最後部を優位にする傾向が強いことを発見し、マックス・リュティは別の法則に気がついた。 主人公がやたらに小さいこと、容貌や活動が目立たないこと、みんなから馬鹿にされていること、能力が劣っていると見えることといった特徴は、すべてそれがすっかり逆転される可能性をもった仮象であるという法則だ(みなさん、自信をもちなさい)。 むろんそんなことは読者は先刻承知のこと、昔話や童話には「負の作用」が真実の価値のための伏線なのである。 このほかにも数々の童話論者や口承文芸学者があきらかにした法則があるけれど、今夜はそれらにはいちいち触れないことにする。 ナラトロジー(物語学)で童話を解くのも一興だが、グリム兄弟にはそういう意図がなかったろうから、ここでは扱わない。 それよりもここでは、1985年を挟んだグリム兄弟生誕200年を記念して世界各地で勃興したグリム童話論がこぞってあげた特徴があったことを指摘しておく。 議論するほどのことはない特徴だけれど、一応は書いておく。 それは、ごくありきたりな指摘なのだが、グリム童話には切断、幼児遺棄、嬰児殺害、親殺し、といった残酷な素材があまりにも溢れかえっているのではないかということだ。 日本でもその手の議論が喧しかった。 野村滋のグリム童話論には「子供に聞かせてよいか」というタイトルがつけられたし、池内紀が訳したグリム童話の解説は、イリング・フェッチャーの「グリム童話は完全犯罪の話が多すぎる」の紹介にやたらに徹していた。 たしかにグリム童話には恐るべき犯罪が満ちている。 そのため、登場人物はとうてい尋常な日々をおくれない。 『灰かぶり姫』のシンデレラの姉たちは鳩に目をつつかれて失明し、『歌う骨』では弟が殺され兄は袋に入れられて水に沈められて水死する。 『白雪姫』だって、毒リンゴを食べさせるという和歌山カレー事件のような他殺計画もあれば、「真っ赤に焼いた鉄の靴で死ぬまで踊らせる」という残酷な仕打ちも計画されている。 『なでしこ』では八つ裂きにあい、『十二人の兄弟』では煮え立った油の樽に放りこまれてしまう者たちがいる。 『ねずの木の話』では男の子の頭が刎ね落とされ、それを細かく刻んでシチューに煮込んでいる。 いったいどうしてこんなふうになったのか。 グリム兄弟の好みだったのではないかという意地悪い指摘もあるほどだが、しかし、これらが残酷だというのなら、マスメディアの報道する20世紀や21世紀のニュースこそ残酷の極みばかりが選ばれているというべきなのである。 そもそも昔話や民話は、村落がのんべんだらりとしている安閑としたところからは発生しない。 洪水や飢饉があったり、疫病が通りすぎたり失火があったり、領主の苛酷な取り立てがあったり、急に牛や山羊がおかしくなったりするうちに、独得のお話のかたちをとった。 残酷がテーマになったのではなく、そうしたよんどころない「負の状況」が物語をつくったのだ。 『ヘンゼルとグレーテル』でも、この話はあきらかに樵(きこり)の両親が暮らしていけなくなってわが子を森の中に捨てるという導入から始まっている。 「あるとき、国ぜんたいにものすごい飢饉がおそいました」とあるように、この両親からすれば明日のパンも確保できない苦境の日々なのだから、子供が餓死してもしょうがないという判断だ。 それならせめて森に放逐したい。 森には危険もあるが、ひょっとすると救済力もあるからだ。 そういう判断なのだ。 きっとそれは中世の村落のやむをえない「間引き」の習慣だったのである。 『ヘンゼルとグレーテル』扉(1839年 ミュンヘン) 以上で推測がつくように、昔話や民話のお話の発端の多くは、たいていはのっぴきならない動機が変形したものだった。 しかしそこから先の筋書きは、必ずしも現実や事実にはもとづかない。 ヘンゼルとグレーテルを森で待ち受けていた老女が、ヘンゼルを格子のついた小屋に放りこんだのは、お話のなかではヘンゼルをぶくぶくに太らせ、おいしくしてから食べようという老女の魂胆になっているのだが、こんなことは魔女伝説にまつわる想像力がつくりあげたもの、そんな出来事が一回でもおこっていたわけはない。 民衆が勝手につくりあげたお話だ。 ましてお菓子の家などあるはずもなく、そこにあるのは「行った者と帰ってきた者の関係」の話とか「行きはよいよい、帰りはこわい」という話とか、「しばらく見えなかった者が成功者になっていた」(三年寝太郎型)という話とかの、物語母型という見方からすれば一種の「往還マザー」をつかっての話がさまざまにヴァージョンを膨らましただけだった。 けれども、そのヴァージョンの荒唐無稽こそが童話というものなのである。 そこにはいつもとびきりのアイディアも散りばめられる。 ヘンゼルが森に行くときに小石を落としておいて帰り道の目印にしたという知恵といい、二度目はパン屑を落としたところ鳥たちが啄んで失敗した顛末といい、屋根がパンで窓が砂糖でできているお菓子の家といい、童話というものはずいぶんファンタジックな謎かけとギミックと成功失敗のヤジロベー的な案配(お話の貸借対照表だと思えばよろしい)をうまく採り入れるものなのだ。 だから昔噺や民話では発端と結末は、途中経過とはべつなのである。 ぼくの用語でいうのなら、途中経過は「アワセ・キソヒ・ソロエ」になっている。 それぞれの土地に長く暮らしてきた者たちが、自分たちの環境と風土と氏神とさまざまな忘れがたい出来事に照らして、お話のためのメイキング(作成)とマッチング(照応)をくりかえしたのだ。 童話とはそういうものである。 それゆえ「グリム童話はどうして残酷なのか」ということだけを話題にするのはつまらない。 途中経過が残酷でない童話など、日本の昔話の『カチカチ山』や『舌切り雀』や『花咲か爺』がそうであるように、特別に目立ったにすぎないと思ったほうがいい。 しかも、多くの昔話を読んでみればすぐわかるように、むしろ残酷ではない童話のほうがずっと多いのである。 別の観点から見ると、ふーん、そういうものかと興味深くさせられることもある。 プロの語り手たちの調査によるのだが、子供たちの多くは首が落ちたり、手足が切断されたり、魔女が殺されることをほとんど怖がることがないというのだ。 ペローの『青ひげ』をおもしろがる子供がいても、これを怖がった子供はいなかったというイギリスの調査報告もある。 それならグリム童話とは何なのかということだが、これについては、童話のいちいちの内容を問題にするというよりも(それはそれでナラトロジーとしても文化人類学としてもおもしろいけれど)、そもそもグリム兄弟がなぜメルヘン(メールヒェン)を集めて編集することになったのかということを見たほうがいい。 グリム童話は、のちにそのことの理由を指摘するつもりだが、今日なおふえつづけている一般の童話や絵本とちがって、あの時期のドイツに生まれたということが重要なのである()。 そこに新たな焦点をおけば、そこから出るプリズムに、グリム兄弟はなぜアルニムとブレンターノという二人のとびきりのドイツ浪漫派に出会うことになったのかとか、兄弟はどのようにメルヘンを集めたのかとか、あるいはそのメルヘンにはどの程度手を入れたのか(編集したのか)とか、さらにはそもそもメルヘンとは何なのかということからグリム童話の正体が見えてくる。 それにはグリム兄弟の日々を多少は追ってみることだ。 今夜は詳しいことはともかくとして、ごくかんたんな生い立ちから見ておくが、グリム兄弟はフリードリッヒ大王時代の末期、ヘッセン侯国の官吏の家に生まれた。 母親のドロテーアも官吏の娘だった。 6人の子供のうち5人が男で、1785年生まれの二男のヤーコプと三男のウィルヘルムは年子だった(この二人をグリム兄弟という)。 晩年の父親が故郷のシュタイナウの裁判官をしたため、一家はしばらく裁判所に住んだ。 兄ヤーコプが11歳のとき、父親が死ぬ。 時は1796年、18世紀の終わりのことだ。 裁判所に住むことができなくなった一家は小さな家に移り、さらに2年後、ヤーコプと弟のウィルヘルムだけが9年制のギムナジウムに入るため、カッセルに移り住んだ。 あの美術祭「ドクメンタ」で有名になったカッセルだ。 田舎から来た子だというので二人は一年下のクラスに入れられるのだが、それがかえってよかったのか、二人はそれを屈辱と感じて猛然と勉強をした。 たちまち進級につぐ進級で、ヤーコプは4年で卒業、二人はともにギリシア語・ラテン語を確実に身につけた。 この言語技法の獲得がのちのちに生きてくる。 1802年、ヤーコプはカッセルから南に100キロほどのマールブルク大学に入った。 法学部にしたのは父親の職能を継ぐつもりだったらしい。 1年後、ウィルヘルムもマールブルク大学に入った。 グリム兄弟の生家の風景 大学での講義は二人を刺激しなかったようだ。 よくあることだ。 けれどもただ一人、若い助教授のフリードリヒ・フォン・サヴィニー先生が強烈な印象をもたらした。 これもよくあることだ。 ちょっと説明をしておくが、当時の法学はローマ法が中心である。 ローマ法は、ローマ帝国がキリスト教を奉じて中世ヨーロッパ世界に版図を広げるにあたって中央集権的に構築した厳密な法体系というべきもので、一言でいえば社会人為的な組み立てになっていた。 しかし世間にはローマ法以外の規律や習慣や取り決めでおこなわれていることなど、いくらでもあった。 とくにドイツ各地には、キリスト教が広がる前にゲルマン諸民族が長年にわたって築き上げてきたいくつもの慣習法があって、そこには中央集権的なロジックがおよそあてはまらないような価値の取り決めやルールが、さまざまに生きていた。 サヴィニー先生はそれを強調した。 ヤーコプはそういった先住民族の伝承や語法に関心をもったのだ。 法学から民間伝承へ。 グリム兄弟はサヴィニーの研究室や図書室に入り浸りになる。 さかんにを調べ、ノートにとるようになった。 そしてあるとき、サヴィニーの自宅でアヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノに出会うのだ。 この出会いが決定的だった。 いい例がすぐに思いつかないが、が賀茂真淵に出会ったものだと思えばいいだろう。 アルニムは後期ドイツ浪漫派を代表する詩人で劇作家で小説家だ。 ベルリンでプロシャ貴族の家に生まれてゲッティンゲン大学で法律・科学・数学を学んだのち、3年にわたってヨーロッパ各地を旅行して、1808年に『隠者新聞』を編集した。 この『隠者新聞』はハイデルベルク浪漫派の牙城となった。 このときアルニムはブレンターノと新たな仕事を組んだ(ぼくはアルニムでは幽霊とを描いた『エジプトのイザベラ』を好んでいる)。 ブレンターノも後期浪漫派の詩人で劇作家で小説家だが、ゲッティンゲンでアルニムと出会ってからその創作欲が開花した(異様な叙事詩の『数珠のロマンツェン』やドイツ文学最初の田園小説ともいうべき『けなげなガスパールと美しいアンナール』が出色だ)。 ちなみにブレンターノの妹がのちにアルニムのもとに嫁いでいる。 そのアルニムとブレンターノが1805年に、二人で『少年の魔法の角笛』第1巻を刊行した。 これが少年少女の世界文学史にとって忘れられないシリーズだ。 ドイツ浪漫派がその精神の極みを求めて到達した民謡歌謡集である。 が激賞し、ヘルダーが構想したドイツ民族の魂がここに結集した。 こうして、グリム兄弟が大学で学んでいたころは、アルニムとブレンターノはちょうど『少年の魔法の角笛』の続巻にとりかかりつつあったのである。 『少年の魔法の角笛』は採集によって成り立っている。 第2巻にはさらに新たな歌謡群が必要だった。 アルニムとブレンターノはサヴィニーにもその素材の応援を頼んだ。 「図書館に自由にできる人で、古い民謡があるかどうかを調べる人はいないだろうか」。 二人は民謡だけではなく、ドイツ民族に伝わる輝かしい伝説も集めたいと思い始めていたのだ。 ドイツ民族にメルヘンという分野が新たな輝きをもったのは、このときだった。 ゲッティンゲン大学図書館 閲覧室 メルヘン(メールヒェンと発音するのが正しいが、ぼくは昔風にメルヘンとする)とは、「メーレ」という中世の名詞を縮小したもので、当時は「出来事のお知らせ」という意味だった。 つまり「情報」だ。 いいかえれば、「よく知られてよい価値があり、それゆえ人々の口にのって伝えられる出来事を知らせる話」というのが「メーレ」であり、それをコンパクトなかたちにしたものが「メルヘン」だった。 けれどもドイツ民族の持ち前の心性は、メルヘンをそのような「お知らせ」として放っておかなかった。 「お知らせ」したいために「人々を楽しませるべく考えついたお話」という意味を含ませた。 メルヘンは「編集されるべき情報」となったのだ。 ちなみにメールヒェンの「ヒェン」は「語られる話のが小さい」ということ、すなわち話の単位がショートだということをあらわしている。 もっともメルヘンはドイツ民族に特有なものではない。 そういうものはヨーロッパ各地にあった。 フランス語では「コント・ド・フェ」といい、英語では「フェアリーテイル」といった。 すでにそうした昔話や民話や説話を集めた先駆的アンソロジーもあった。 たとえば、先に名前を出しておいたジャンバティスタ・バジーレが1634年に『あらゆるメルヘンのなかのメルヘン、あるいは子供たちのための楽しみ』(ペンタメローネ)をまとめたとき、イタリアのメルヘンが立ち上がっていたのだし、シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』などを集めた童話集もフランスのメルヘンの立ち上がりを告げていた。 しかし、ドイツにはまだそのような覚醒がなかった。 アルニムとブレンターノがそこに火をつけたのだ。 すでにサヴィニー先生は大学を辞してパリで研究活動に入っていた。 その助手としてヤーコプ・グリムを呼び寄せていた。 サヴィニーはさっそくヤーコプをアルニムとブレンターノに紹介する。 ヤーコプもこの仕事をおおいに意気に感じ、ブレンターノはアルニムにヤーコプ青年のことを「たくさんのノートをとり、ドイツ民族の浪漫的文芸に対する多面的な知識をもったすばらしい研究者だ」という感想を送っている。 時はちょっと戻って1805年のこと、ヤーコプはカッセルに帰っていた。 母と末っ子のシャルロッテもカッセルに引っ越していた。 ヤーコプはそこでたまたま近所のヴィルト家を知ることになった。 太陽薬局という薬屋を営んでいた一家で、カッセルの中央広場に面していた。 そこにグレートヘンとドルトヘンという姉妹がいた。 この姉妹は近くのハッセンプフルーク家とも親しかった。 ハッセンプフルーク家の家人たちも昔話に長けていた。 屈託のない妹のシャルロッテを通してこれらの一家と親しくなったグリム兄弟は、この一家の者たちが昔話にめっぽう詳しいことを知って、聞き書き(ヒアリング)をすることにした。 聞き書きはときに一日中、ときに毎晩におよんだ。 そこにアルニムとブレンターノの依頼がうまいぐあいに重なった。 兄弟はその期待に応える作業に励みを感じた。 聞き書きは過熱した。 そして、この聞き書きこそがグリム童話の出発点となったのである。 グレートヘンやハッセンプフルーク家から聞き書きした採話は、ていねいにまとめられてブレンターノらに送られた。 49篇あった。 ベルリンのグリム兄弟の書斎 (上・ヤーコプ 下・ウィルヘルム) ぼくもいろいろの研究書(いいかげんなものも含めて)を読んでみたのだが、ブレンターノらがグリムの貢献と成果に反応しなかった理由は、どうもはっきりしない。 兄弟が集めたいくつかの歌謡は『少年の魔法の角笛』の第2巻と第3巻に収められている(おそらくグリム兄弟の提供だろうと推測されるものが24篇ほど掲載されている)。 が、お話(メルヘン)のほうにはブレンターノらはまったく関心を示していない。 これは信じがたいことである。 アルニムとブレンターノこそはドイツ・メルヘンの凱歌を希求していたはずなのだ。 おそらくは関心を示さなかったのではなく、小さいころから憂鬱と浪漫のあいだを行ったり来たりしていたブレンターノの独得の気質によるものだったろう。 世の中には、あれだけ気を乗せて頼んできておきながら、その後は梨の飛礫になる連中はけっこういるものだ(ぼくもそういう何人かや、そういう何社かに出会ってきた)。 ブレンターノはついつい返事をしなかっただけだったと思いたい。 そういうこととは露知らないグリム兄弟は落胆した。 原稿は送り返されてもこなかった。 しばらくは待ち遠しく、しばらくは苛々した。 が、それが結局はグリム童話の誕生のためにはよかったのである。 兄弟はかつてカッセルのギムナジウムの1クラス下に入れさせられたときに発奮したように、今度も発奮した。 念のために原稿の書き写し(コピー)をしていたこともさいわいした。 兄弟は自力で聞き書きメルヘンを出版しようと決意する。 86篇を収録した。 グリム兄弟が『子供と家庭の童話』(これがグリム童話集の正式タイトル)を自力刊行することにしたのは、ブレンターノの引きこもりのせいだけではなかった。 兄弟自身にも強烈なモチベーションがあった。 それはドイツ人の、ドイツ国民のための、ドイツ語の童話を確立したいと願っていたからだ。 『子供と家庭の童話』扉 (ヤーコプ、ウィルヘルムの弟・ルートウィヒの画) さて、兄弟がメルヘンの採話に夢中になっていた時代がどういう時代だったかということは、御存知か。 そのことが見えてこないとグリム童話の正体はわかせない。 先にも書いたが、グリム兄弟が生まれたのはフリードリッヒ大王末期の1785年あたりだが、このあとドイツはフリードリッヒ・ウィルヘルム2世の治世に入った。 そのとたん、隣国のフランスでフランス革命が勃発した。 それでどうなったか、御存知か。 自由・平等・博愛が広まったのではない。 ナポレオンが台頭して、ヨーロッパは戦場と化したのだ。 グリム兄弟がメルヘン収集に乗り出していた時代は、ドイツが各地でそのナポレオン軍と戦闘していた真っ只中だったのである。 いっときヤーコプもカッセルの兵站司令部の書記に従事させられていた。 ヤーコプがパリのサヴィニー先生のところで助手をしていたときは、英露墺の対ナポレオン同盟が結成された時期だった。 それでもナポレオンはアウステルリッツで戦勝し、ドイツはいよいよ風前の灯火にさらされた。 ナポレオンはイギリスを大陸封鎖しておいて、ドイツ領主たちをライン同盟化させると、ついにプロイセンに殴りかかってきつつあった。 中世ドイツ人の象徴であった神聖ローマ帝国があっけなく瓦解したのは、『少年の魔法の角笛』第1巻が刊行されたときなのだ。 そういうなか、いや、そうしたなかであればこそ、兄弟は(アルニムとブレンターノもそうだったが)、ドイツ民族の魂のルーツを伝えるメルヘンの収集に乗り出したかったのだ。 ちなみにの刊行が『少年の魔法の角笛』第1巻の翌年、ベートーベンの第五交響曲がその2年後、の発表がその3年後のことである。 これであらかた見当がつくように、グリム兄弟のメルヘン採集はドイツ魂の鼓舞とつながっていたわけである。 グリム童話の刊行だけのことをいえば、その採集と刊行はドイツ民族の危機の予兆とともに始まって、ナポレオンの退嬰とともに終わったのである。 実際にも『子供と家庭の童話』は1812年から1857年の第7版まで続き、最終的に211話が収録されたところでピリオドが打たれた。 途中には削除も補填もあった。 こうしてグリムは童話集の編集を終え、あとで少しだけ説明するが、その後はドイツ語やドイツ文法やドイツ英雄伝説やゲルマン神話の研究に向かう。 もはや説明するまでもない。 グリム兄弟は祖国愛をもって立ち上がった「母国語の闘士」だったのである。 グリム童話は祖国愛と母国語のための下調べだったのだ。 これでぼくが、宣長が真淵と出会ったことをグリム兄弟のアルニムとブレンターノの出会いに準(なぞら)えた意図が少しは伝わったかと想う。 グリム兄弟はドイツにおけるを排してゲルマン民族の「いにしえごころ」(古意)に突入していったのだ。 ついでながら、わかりやすいだろうから時代の東西の符牒を言っておくと、宣長が『古事記伝』を完成した寛政10年は1798年のことなのだが、それはヤーコプとウィルヘルムがカッセルのギムナジウムに行っていたころだった。 では、みんなも気になることだろうから、グリムがどの程度にわたってメルヘンに手を入れたかというところを少々点検しておこう。 これについては厖大な研究が微に入り細に亙ってあきらかにしていることなので、そのいちいちにはふれないが、結論を言うなら、兄弟はあきらかに手を入れた。 改変した。 編集した。 聞き書きをそのまま童話として活字にしたわけではなかったのだ。 兄弟が聞き書きした相手は、最初は太陽薬局のグレートヘン・ヴィルトとドルトヘン・ヴィルトの姉妹で、彼女らは『白鳥の王子』『白い鳩』などを語って聞かせた。 ついでほぼ同時期にハッセンプフルーク家の娘のマリーたちから『白雪姫』や『長靴をはいた猫』などを聞き書きした。 さらにカッセル近郊のドローテア・フィーマンという仕立屋のおかみさんからは(研究者のあいだではフィーマンおばさんとして知られる)、ドイツ農民の独得の語り口というものを知らされ、合計37話を採集する。 第2巻のグリム童話集(子供と家庭の童話集)の巻頭に飾られたのが、そのフィーマンおばさんの肖像だ。 そのほか兄弟が聞き書きした相手はかなりの数にのぼる。 しかし、昔話を語ってくれる者なら片っ端から聞き書きしたというのではない。 各地に赴いたというのでもない。 グリムが訪れた近郊の語り手たちが一度語った話を黙ってすべて聞き、二度目あるいは三度目にもその話ぐあいとほぼ同じ話し方ができていたものだけを、丹念にノートしていったのだ。 このような方法に熱中したことを見ると、兄弟には、なんらかのメルヘン編集術に関する信念があったといっていいだろう。 それをグリムが昔話や民話の原型を改変したとも、改悪したとも、また恣意的なドイツ民話を捏造したとも非難することは、できないわけではない。 けれども、グリム童話の編集術がどのようなものであったかということに倫理的な判定をえらそうにくだすのは、やめたほうがいい。 結局は「なぜ残酷な部分を和らげなかったのか」とか、「結論部に矛盾が多すぎる」とか、「とうてい子供の教育にふさわしいとは思えない」といった揶揄に終始するだけだ。 それでは、あんたのお里が知れるだけなんですよ。 『いばら姫』挿絵 (ウィルヘルム・ジンムラー画) 念のため、どのようにグリムが手を入れたのか、いくつかの例だけをあげておくが、これを知ったからといって鬼の首を取ったような気にならないでもらいたい。 たとえば有名なところでは、『白雪姫』では実母を継母に変えた。 また、小人(こびと)たちが白雪姫に出した条件を変えた。 グリムの当初に採取したノートでは、小人たちは白雪姫に「かくまってやるかわりに、料理をしておくれ」と言っていたにすぎないのだが、『子供と家庭の童話』に入った時点で、「あんたがわしらの家の切り盛りをしてくれ。 料理をつくり、ベッドをなおし、洗濯、繕いもの、編み物をして、なんでもきれいにしてくれるんなら、ここにいてもいいよ」となった。 『十二人の兄弟』の初版では、王さまは娘が生まれると考えただけで恐怖をもつのだが、第2版になると、王さまは娘が生まれると思うと夢中になりましたというふうになる。 正反対だ。 そのため息子たちを犠牲にするというプロットになった。 『ヘンゼルとグレーテル』で実母が継母になったことはすでにのべたが、これは第4版になってからの改定だった。 こういう改変や改竄はグリム童話の随所にわたっている。 詳しいことはガブリエーレ・ザイツの『グリム兄弟』やマリア・タタールの『グリム童話・その隠されたメッセージ』などを読むといい。 いくらでもヴァリアントを示してくれている。 しかしだからといって、この改変編集を咎められるだろうか。 ルートウィヒ・グリムによる『ヘンゼルとグレーテル』挿絵 (「もっと空想的でメルヘン風でなければならないだろう」という趣旨の、ウィルヘルムの書き込みがある) そもそも口伝えの何をもって正確な記録というべきなのか。 正確な記録ということ自体がありえない。 編集なきコミュニケーションなんて、あるわけはない。 グリム兄弟は自分が聞き書きをしているときから、これが別の語り手から聞いたものであればおそらく異なるものになっていただろうことは、十分に予想していた。 ヴィルトの姉妹やハッセンプフルーク家の人々やフィーマンおばさんに話を聞いているときも、兄弟はきっとその背後にあるだろう「分母としてのメルヘン」をこそ想定していたのである。 だいたい、メルヘンではしょっちゅう魔女や魔法使いが登場するのだが、その魔女や魔法使いは邪念をもたらすものであって、また恵みを与えるものなのである。 メルヘンでは登場人物をこれが善、これが悪とは規定しがたい。 正は負であり、負が正なのだ。 かくしてぼくの見方は、こうなのだ。 童話というもの、その話を「デジャ・アンタンデュ」(聞いたことがあるような感じ)にすることが役割だと見たほうがいい。 これが童話のモダリティなのである。 それゆえグリムはおそらくは、「この話はそのようになりたいにちがいない」と思って編集しつつづけたのである。 言い伝えられ、語り継がれた物語がこのようになりたいと思っていただろう方向に、グリム童話を夢中でまとめたのだ。 もっとはっきりいえば、内容や筋書きを作り替えたかったのではなかったのだ。 そこにひそむドイツ民族のドイツ語による語りの本質を残したかったのだ。 グリムが童話編集のかたわら、何に没頭していたかを、また童話編集後は何に没頭していったかを最後に書いておく。 1816年、ヤーコプとウィルヘルムは『ドイツ伝説集』第1巻を刊行した。 1818年には第2巻を、さらにウィルヘルムは『アイルランドの妖精童話』(翻訳)と『ドイツ英雄伝説』を、ヤーコプは『ドイツ神話学』をまとめた。 これでびっくりしては困るのだが、これだけでもグリム兄弟の研究姿勢が只事ではないことが窺い知れるだろう。 この仕事は文法の解明であってドイツ語の歴史の解明であり、かつそのままがドイツ人民族の思考の歴史であった。 そのように確信していたヤーコプは、『ドイツ文法』を哲学的に綴ることを断固として避けた。 このことについてはヤーコプは何度も序文や友人への手紙に書いている。 ぼくは、ここを断固として評価する。 ドイツ語という母国の言葉の内実を解明するのだから、そのこと自体がドイツ的思考なのである。 そこへよそから哲学や理念をもちこむ必要などなかったのだ。 こうしたドイツ研究に人生の時間のすべてを投入したグリム兄弟の志がどこにあるかは、ヤーコプの次のメッセージにあらわれている、「文芸は民族の魂から発し、それが言葉になったものなのです」。 フォルクスワーゲンの、あのフォルクだ。 グリム兄弟はこのフォルクのために口承説話を集め、ゲルマン神話を辿り、ドイツ語の歴史を研究したのだった。 これで予想がついただろうが、兄弟がメルヘンを改変したのは、フォルクとドイツ語のためだった。 ちなみにこうしたグリムのドイツ論は、いずれ「千夜千冊」でとりあげるかもしれないジャン・パウル、アマデウス・ホフマン、アレキサンダー・フォン・フンボルトとウィルヘルム・フォン・フンボルトの兄弟、アウグスト・フォン・シュレーゲルとフリードリッヒ・フォン・シュレーゲルの兄弟を熱狂させた。 晩年のグリム兄弟について、二つのことを付け加えておきたい。 ひとつは、ヤーコプがフランクフルト議会に何度も参画して(ときに会議の議長もつとめ)、祖国ドイツのための憲法の試案にとりくんでいたということだ。 詳しくはガブリエール・ザイツの『グリム兄弟』に収録されているおびただしい史料や手紙を見てもらうといいが、この憲法試案へのとりくみは、兄弟のヴィジョンがどこに向かって過熱していたかを雄弁に暗示しているだろう。 もうひとつは、『ドイツ語辞典』のことだ。 これはヤーコプとウィルヘルムが最後に最も力を注いだ仕事で、第1巻は1852年に、ウィルヘルムの死ののち第2巻が1860年に刊行され、その3年後にヤーコプが死んでからは、実に100年をかけて東西に分裂したドイツがこれだけはドイツ民族のために共同編集しなければならないと合意して、その完成をめざしたものだった。 今夜とりあげたのは新潮文庫版で、『白雪姫』『ヘンゼルとグレーテル』『ブレーメンの音楽師』の3冊になっている。 定番は岩波文庫版で5巻にわたる。 すべて金田鬼一が訳しているが、ぼくには新潮文庫の植田敏郎訳のほうがなじみやすい。 ほかに高橋健二訳の『グリム童話集』全3冊(小学館)、小澤俊夫訳の『完訳グリム童話集』(ぎょうせい)もある。 文中に紹介した池内紀訳はちくま文庫の『グリム童話』2巻本になっている。 これはやや穿ちすぎていて、ぼくは勧めない。 さまざまなヴァリアントを知りたい向きに必読は、『初版グリム童話集』全4巻(白水社)だろう。 グリム兄弟をめぐる評伝・批評・批判書もべらぼうにある。 グリムを批評にさらそうというものも少なくない。 とくにグリム残酷説は売れ行きがいいせいもあって、引きもきらない。 おもしろい視点のものもある。 メルヘン研究も多い。 なかでぼくはの『メルヘン論』(書肆風の薔薇)、アンドレ・ヨレス『メールヒェンの起源』(講談社学術文庫)、森義信『メルヘンの深層』(講談社現代新書)を愛読した。

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1174夜『ヘンゼルとグレーテル』ヤーコプ・グリム&ウィルヘルム・グリム

オセロ ニア グリム 兄弟

「神は形式論理に属さない」ということ。 その理由は「我々はNP困難を表現できるから」。 【前提】 ・「神は全ての領域を包括する」 ・「神はNP完全以外記述できない」 「我々はNP困難を記述できる」から、「神以外の領域が存在する」。 従って「全ての領域を包括するはずの神がNP完全以外記述できないのは矛盾する」。 よって「神は存在しない」。 ここまで言われれば分かると思うが、前提のような神の定義の仕方がおかしいだけで、当のグリムも「こういう神の定義の仕方はおかしいですよ」と言っている。 どっちかといえば「グリムの定理」なんてのは「民衆は結論以外受け取らない」という心理学上の定理だと思う。 *** 例えば将棋は解き方が存在しないのでNP困難。 オセロは解き方が存在するので、NP完全。 神はオセロは解けても将棋は解けないので、神はいない 笑.

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