横浜 たそがれ 歌詞。 横浜銀蝿の歌詞一覧リスト

よこはま・たそがれ

横浜 たそがれ 歌詞

6日に77歳で死去した山口洋子さんを音楽評論家の小西良太郎氏が追悼した。 「作詞家は阿久悠しかいないのですか、歌手は沢田研二しかいないのですか?」 山口洋子からそんなはがきが届いたのは、1976年の初めのころ。 スポニチ紙面が阿久をコラム執筆の常連にし、石原信一を起用、沢田の連載を始めたことへ、やや感情的な彼女の抗議だった。 そのくらい彼女は、五木ひろしの全てに熱中していた。 彼女が伝説の10人抜きテレビ番組「全日本歌謡選手権」で五木を見いだしたのはそれより5年前の1970年。 以後彼女は五木のゼネラルプロデューサーになる。 再デビュー曲「よこはま・たそがれ」を作詞、平尾昌晃に作曲を依頼、作家五木寛之と話して芸名を決め、親交のあったキックボクシングの野口修社長のプロダクションに所属させる。 それやこれやが大当たり、五木は彼女と平尾の「夜空」で73年のレコード大賞を受賞している。 競り合った阿久作品の沢田は、目の上のたんこぶだったのだろう。 流行歌のエッセンスみたいな単語がぶつ切り。 言葉の一つ一つが相乗効果をあげながら、物語のイメージを浮かび上がらせる仕掛け。 言葉のジグソーパズルみたいな詞の向こう側に見えるのは、濃いめの情事、不倫の匂いで、平尾のメロディーがそれを、よどみなく甘美に具体的にし、下積み6年の五木が、地味派手のおとなの歌にした。 山口は当時、銀座の有名クラブ「姫」のママ。 映画女優出身の人脈も生きて、芸能界の有力者が常連客にいた。 その中の一人の、 「女給風情が詩人気取りか!」 の一言も、彼女の負けん気に火をつけたろう。 やがて五木が独立、山口は長い闘病生活に入る。 (スポニチOB、音楽評論家).

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山口洋子の「よこはま・たそがれ」は盗作だった。(花田紀凱)

横浜 たそがれ 歌詞

作詞家で、直木賞作家の山口洋子さんがなくなった。 追悼記事だから当然かもしれないが、新聞もテレビもいい話ばっかり。 関係者から惜しむ声が相次いだ、と書いたのは朝日新聞。 歌手五木ひろしは「あの出会いがなければ五木ひろしは存在しませんでした」と語っている。 40年前の売れない歌手時代「五木ひろし」と名付けてもらい、山口さんが作詞した「よこはま・たそがれ」を歌って大ヒット。 一躍トップ歌手として認知された。 しかし、ぼくは山口洋子さんを作詞家としても、作家としても絶対認めない。 なぜなら、「よこはま・たそがれ」は完全な盗作だからだ。 以下比べていただきたい。 先づ 「 よこはま・たそがれ」 1、よこはま たそがれ ホテルの小部屋 くちづけ 残り香 たばこのけむり ブルース 口笛 女の涙 あの人は行って行ってしまった あの人は行って行ってしまった もう帰らない 2、略 3、木枯らし 思い出 グレーのコート あきらめ 水色 つめたい夜明け 海鳴り 灯台 一羽のかもめ あの人は行って行ってしまった あの人は行って行ってしまった もう帰らない こちらはアディー・アンドレというハンガリーの詩人の「ひとり海辺で」という詩。 三笠書房発行の「世界の名詩集12『世界恋愛集』東欧編」に載っている。 山口さんが「よこはま・たそがれ」を作詞するの3年前に発行された本だ。 海辺 たそがれ ホテルの小部屋 あの人は行ってしまった、もう会うことはない あの人は行ってしまった、もう会うことはない 略 あたりに漂うあの人の残り香 波の音が聞こえる、心なき海の楽しげなその歌 波の音が聞こえる、心なき海の楽しげなその歌 どうです? 似てるでしょ。 「海辺」が「横浜」に変わっただけ。 他にも、灯台、海鳴り、口づけ、思い出などかなりの語句が共通している。 これを盗作と言わずして何を盗作というのか。 しかも、「三行めまでのプツンプツンと切れる字句の配置が非常に斬新」という理由で第4回日本作詞大賞、企画賞まで受賞というのだから、呆れるしかない。 実はこのことをぼくは当時「週刊文春」で告発した。 このレコードを出したミノルフォンの役員が泣きついてきたが、構わず掲載した。 作詞大賞審査員の田辺茂一さんは「受賞取り消しでもしょうがない」といい、口の悪い竹中労さんは「泥棒というか窃盗」とまで。 しかしことはうやむやに終わって、五木ひろしは大歌手になり、山口洋子さんはのちに直木賞まで受賞した。 だからぼくは山口洋子さんの小説は一作も読んでない。 読む気がしない。

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五木ひろし よこはま・たそがれ LYRICS

横浜 たそがれ 歌詞

6日に77歳で死去した山口洋子さんを音楽評論家の小西良太郎氏が追悼した。 「作詞家は阿久悠しかいないのですか、歌手は沢田研二しかいないのですか?」 山口洋子からそんなはがきが届いたのは、1976年の初めのころ。 スポニチ紙面が阿久をコラム執筆の常連にし、石原信一を起用、沢田の連載を始めたことへ、やや感情的な彼女の抗議だった。 そのくらい彼女は、五木ひろしの全てに熱中していた。 彼女が伝説の10人抜きテレビ番組「全日本歌謡選手権」で五木を見いだしたのはそれより5年前の1970年。 以後彼女は五木のゼネラルプロデューサーになる。 再デビュー曲「よこはま・たそがれ」を作詞、平尾昌晃に作曲を依頼、作家五木寛之と話して芸名を決め、親交のあったキックボクシングの野口修社長のプロダクションに所属させる。 それやこれやが大当たり、五木は彼女と平尾の「夜空」で73年のレコード大賞を受賞している。 競り合った阿久作品の沢田は、目の上のたんこぶだったのだろう。 流行歌のエッセンスみたいな単語がぶつ切り。 言葉の一つ一つが相乗効果をあげながら、物語のイメージを浮かび上がらせる仕掛け。 言葉のジグソーパズルみたいな詞の向こう側に見えるのは、濃いめの情事、不倫の匂いで、平尾のメロディーがそれを、よどみなく甘美に具体的にし、下積み6年の五木が、地味派手のおとなの歌にした。 山口は当時、銀座の有名クラブ「姫」のママ。 映画女優出身の人脈も生きて、芸能界の有力者が常連客にいた。 その中の一人の、 「女給風情が詩人気取りか!」 の一言も、彼女の負けん気に火をつけたろう。 やがて五木が独立、山口は長い闘病生活に入る。 (スポニチOB、音楽評論家).

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