羅生門 感想。 羅生門のレビュー・感想・評価

映画「羅生門」(1950年)の観賞備忘録(感想とあらすじと情報を添えて)

羅生門 感想

羅生門の読書感想文を書いてこいと言われました。 ほんの少しググッたので全てが自分の能力ではないですが 改善点をお願いします あと急いで書き上げたのと200字程度と言われたので文章構成が無理やりだったり滅茶苦茶、日本語がおかしいかもしれないのでご了承ください 羅生門 羅生門を読んで一言でまとめると、私は文豪のすごさを実感しました。 まず私が気づいたのは、下人の悪に対する考え方が2転3転している事です。 老婆に会った時は悪に対する憎悪の気持ちが込み上げてきたが、老婆の話を聞いた後は「生きるためには仕方ない」と簡単に考え方が変わりました。 ここで作者の伝えたい事が何となく分かりました。 作者の伝えたかった事は、人のエゴイズムについてだと思います。 自分の事や利益のためなら簡単に価値観が変わる。 こういう事を言いたかったんだと思います。 またそれをこの時代背景や情景、登場人物の言動で上手に表現する事にこの作品の魅力や凄みがあるのだと思いました。 以上です 「一言でまとめると、」はくどいのでいりません。 次の文の「私が」も一文前の私と被ってしまい、くどいのでいりません。 考え方が変わりました。 に直しましょう。 文章の順序を入れ替え、句切りを無くしました。 すっきりしていいと思います。 以上です。 私の好みでやったところもあるので「これは違うんじゃない?」と思ったら、気にしなくていいですよ~。

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映画「羅生門」は世界に通じる普遍的な物語!感想とネタバレ

羅生門 感想

著者 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 発表年 1915年 発表形態 雑誌掲載 ジャンル 短編小説 テーマ 人間のエゴ 『羅生門』は、1915年に文芸雑誌『帝国文学』(11月号)で発表された芥川龍之介の短編小説です。 平安時代末期の京都を舞台に、「生きるための悪」が描かれています。 『今昔物語』(こんじゃくものがたり。 平安末期の説話集)に収録されている話が元になっています。 平安朝を舞台にした芥川の作品は「王朝もの」と呼ばれており、『羅生門』の他に『偸盗(ちゅうとう)』『地獄変』『邪宗門』などがあります。 『羅生門』は、1950年に黒澤明監督によって映画化されました。 夏目漱石に『鼻』を評価され、学生にして文壇デビュー• 堀辰雄と出会い、弟子として可愛がった• 35歳で自殺• 菊池寛は、芥川の死後「芥川賞」を設立 芥川龍之介は、東大在学中に夏目漱石に『鼻』を絶賛され、華々しくデビューしました。 晩年は精神を病み、睡眠薬等の薬物を乱用して35歳で自殺しました。 作家の室生犀星(むろう さいせい)から堀辰雄を紹介され、堀の面倒を見ます。 学生時代からの友人で、文藝春秋社を設立した菊池寛は、芥川の死後「芥川龍之介賞」を設立しました。 芥川の死は、上からの啓蒙をコンセプトとする近代文学の終焉(しゅうえん)と語られることが多いです。 『羅生門』のあらすじ ある日の夕暮れ、京都の羅生門の下で下人が雨宿りをしていました。 飢え死にしたくはありませんが、盗みをする勇気はありません。 今夜の寝床を求めて、下人は羅生門の上に上ります。 そこでは、老婆が死体の髪の毛を抜いていました。 老婆の話を聞いているうちに、下人の心には少しずつある勇気が芽生えていきます。 登場人物紹介 下人(げにん) 主人公。 金持ちの家で私的奴隷として働いていたが、京都の荒廃が原因で解雇され、羅生門の下で雨宿りをする。 老婆(ろうば) 羅生門の上で死体の髪を抜いているところを下人に目撃されてしまい、狼狽する。 『羅生門』の内容 善悪とは? 雨宿りの下人 平安時代の末期の京都。 下人は羅生門の下で雨宿りをしていました。 この時の京都は、天災が続いて荒れ果て、羅生門には獣や盗人が住むほど荒廃しています。 仕事をクビになってしまった下人は、行く当てもなく羅生門の下で雨が止むのを待っていました。 帰る家を失った下人は、途方に暮れてしまいました。 大きなにきびを気にしながら、下人はこれからのことを考えます。 このまま何もしなければ、飢え死にして犬のエサになってしまいます。 職がない下人がそれを避けるには、盗人になるしかありません。 しかし、下人にはその勇気がありません。 その時、下人は羅生門の上へ繋がるはしごを見つけました。 晩秋の京都は凍える寒さなので、下人ははしごを上りました。 謎の老婆 引き取り手のない死体を羅生門に捨てるという習慣ができていたので、羅生門の上には死体が転がっていました。 しかし、下人は死体の中になにやら動くものを認めます。 誰かが火を灯していたのです。 白髪頭の 老婆が、死体の髪の毛を抜いていたのでした。 最初、下人は得体のしれない恐怖を感じていましたが、だんだんそれが怒りに変わっていきました。 下人は、刀に手をかけて老婆に歩み寄ります。 驚いた老婆は逃げようとしますが、「何をしていた」と下人が問うと、「髪を抜いてかつらにしようと思った」と老婆は答えました。 老婆の言い分 老婆は、「死体の髪を抜くのは悪いことかもしれない。 だが、いま私が髪を抜いていた女は、蛇を切って干したのを干魚だと嘘をついて売っていた」と言います。 続けて、「そうしなかったら餓死するのだから仕方がないことだ。 私も髪を抜かなければ飢えてしまうのだから、彼女も私の気持ちを理解してくれるだろう」と言いました。 下人は、老婆のこの言葉をにきびを手で触りながら聞いていました。 下人にはある勇気が湧いてきました。 そして「きっとそうか」と何か決意したように言った途端、下人はにきびから手を放して老婆に襲い掛かりました。 そして、下人は 「では、己が引剥(ひはぎ。 衣類をはぎ取ること)をしようと恨むまいな。 己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」と言って老婆が着ていたものをはぎ取ると、足早に去って行きました。 『羅生門』の解説 突如現れるフランス語 『羅生門』を読む人を苦しませるのは、なんの前触れもなく出てくる「Sentimentalisme」という単語です。 フランスの単語で、「サンチマンタリスム」と読みます。 これは英語で言う「センチメンタル」で、感傷におぼれる心理のことを言います。 では、なぜ「下人の感傷に影響した」ではなく「下人のSentimentalismeに影響した」なのでしょうか。 結論から言うと、まだ「Sentimentalisme」の日本語訳がなかったからです。 芥川は『羅生門』を書いていた当時、大学でフランス文学の授業を取っていました。 そのとき「Sentimentalisme」に当たる日本語訳は存在していなかったため、先生はフランス語の小説を原文のまま読み上げて、「Sentimentalisme」の訳が分からなくても文脈の中で意味が理解できるような授業をしました。 芥川はその授業で、適切な日本語には訳せないものの、「Sentimentalisme」の意味を理解しました。 その「Sentimentalisme」を『羅生門』で実際に使ってみたというわけです。 日本語訳がなかったから、フランス語のままなのです。 長い間、この単語については様々な研究がなされてきましたが、近年芥川の大学の講義ノートが見つかったということで、その真実が明らかになりました。 『羅生門』は、「Sentimentalisme」を実践した小説ということができます。 にきびの意味 下人は、終始にきびを気にする素振りを見せます。 その謎を解明するには、小説の設定を理解する必要があります。 羅生門は、実際に京都にあった門です(本当は羅城門ですが、芥川はあえて羅生門と表記しています)。 四角形の都の一番奥にある、天皇の住む宮中から延びた大通りの先にあります。 羅生門は、都と外界の境界になる場所です。 人を殺して捕まるのも、盗みをして罰せられるのも、都が天皇によって秩序を保たれているからです。 逆に言えば、天皇の権力が及ばない都の外の世界は、盗みも殺しも何でもありの無法地帯です。 つまり、危険な外界に一番近いところが羅生門というわけです。 当時の都の人は、京都の外は野蛮人が生活するところと認識していました。 これを理解すると、 下人が「秩序(京都)と無秩序(外界)の間(羅生門)で悩んでいる」という構図が見えてきます。 その上で、にきびの描写を追っていきましょう。 前半から中盤までは、下人はにきびを手で触り、気にするそぶりを見せていました。 しかし、老婆の「餓えをしのぐためなら悪も許される」という老婆独自の理論を聞いた下人は、「不意に右の手をにきびから離して」老婆に襲い掛かります。 犯罪に手を染めるか餓死するかで悩んでいた下人は、老婆の言葉で「餓えないための手段」としての盗みを正当化し、盗人になる決意をしたのでした。 このことから、 にきびは煩わしい「秩序」を意味していたと言えます。 盗人になるのを妨げていたのは、「秩序を守らなければならない」という下人の良心です。 にきびから手を放し、秩序というしがらみから解き放たれた下人は、盗人に一歩近づいたのでした。 ラストについて 実は、『羅生門』が最初に書かれた時の最後の一文は、現在のものとは異なっていました。 現在採用されているテクストは、「下人の行方は誰も知らない」となっており、下人がこの後どうなるのかが明記されておらず、曖昧な終わり方になっています。 しかし、最初は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」となっており、下人はこれから盗人として生きていくことを思わせる形になっています。 現行の物に改稿されてから、下人は盗人になるのか、改心するのか、それとも全く別の第三の道を歩むのか、解釈は読者に委ねるような終わり方になりました。 これは研究者の間でも意見が分かれていて、決着がついていません。 なぜ下人は髪を抜くことに怒りを覚えたのか? 羅生門の上で死体の髪の毛を抜いていた老婆を見た下人は、激しい怒りを感じます。 「死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった」とあることからも、下人がいかに死体の髪の毛を抜くことを悪だと捉えているかがよく分かります。 これには宗教が関係していると考えられます。 仏教の教えが広がる京都では、死体に手を加えること(死体損壊)はタブーです。 現代の私たちでもその感覚は同じです。 下人の態度は、常識人として当然の反応と言えます。 ではなぜ老婆は平気で髪を抜いているのでしょうか。 生きるか死ぬかの瀬戸際で揺れる彼女には、倫理を保つ余裕がなかったからです。 羅生門の上でのやり取りには、下人の「秩序(倫理)」と老婆の「無秩序(非道)」が混在しているのです。 色に注目 所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。 冒頭部分の引用です。 丹塗(にぬり)とは、社寺を赤く塗装した状態を言います。 そして、当時の蟋蟀(きりぎりす)は現在のコオロギですので、色でいうと緑ではなく黒です。 また、丹塗りというのは赤く塗る前に黒で塗装する工程をはさみます。 よって、「所々丹塗りの剥げた」というのは、「丹塗りの赤から下地の黒が見える」という状態を指しています。 ここから、赤と黒の対比を見ることができます。 昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。 ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。 さらにこの部分にも、 夕焼けの赤と鴉(からす)の黒の対比が現れています。 このことから、『羅生門』のテーマカラーは赤と黒であることが読み取れます。 動物に注目 下人は、死体だけがあると予想していた羅生門の上に、思いがけず人がいて得体のしれない 恐怖に駆られます。 そこにいたのは「 猿のような老婆」でした。 下人は、その老婆が死体の髪の毛を抜いているところを目撃して 怒りを覚え、彼女の「 鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕」をねじ倒しました。 そして何をしていたのかを問い詰めると、老婆は「 鴉(からす)の啼くような声」で「髪を抜いてかつらにしようと思った」と言いました。 下人は、おそらくもっと突拍子もない理由が出てくることを想定していました。 晩秋の雨の夜に、羅生門の上で死体の髪の毛を抜くなんて、どう考えても異常なことだからです。 しかし、老婆の答えはごく普通なことでした。 下人はこの時、 老婆の「普通さ」に失望し、同時に彼女を下に見るようになります。 そしてその後の老婆の言い訳が「 蟇(ひき。 蛙のこと)のつぶやくような声」で言われていると描写されています。 同時に下人の心情も、異様で不気味なものへの恐怖から、平凡な弱者への軽蔑に移っていると捉えることができます。 先ほどの「赤と黒のコントラスト」と同じで、作品の読みに直接関わってきません。 しかし、芥川が意識的にか無意識的にかは分かりませんが、色と動物をそのように書く傾向がある、ということがここから分かります。 『羅生門』の感想 善悪とは? 「善悪とはなにか」を考えさせられる小説だという印象を受けました。 善と悪は必ずしも切り分けられるものではなく、見方によって決まるのではないかということです。 例えば、干魚だと言って女が売っていた蛇は「味が良い」と評判でした。 もしかしたらそれを買っていた人たちは、女が亡くなったせいで美味しい「干魚」を食べられなくなってしまったことを悲しんでいるかもしれません。 「蛇を売っていた」という背景を知っている人は女を「悪」とみなしますが、それを知らない人は「善」とみなすのではないでしょうか。 また、下人は死体の髪の毛を抜く老婆を「悪」としました。 しかし老婆は「餓えから逃れるためなら悪事を働いても良い」という独自の考えを用いて、自分を「善」だとします。 さらに老婆から衣類をはぎ取った下人は、老婆と同じ考えで自分を「善」とします。 しかし、被害者の老婆からしたら下人は「悪」でしょう。 このように、同じ出来事でも角度によって評価が変わってくるのです。 特に、私が気になったのは、「勇気」という言葉の使い方です。 「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。 「勇気」という言葉は、普通プラスの単語にしか付きません。 ですが、ここでは「盗人」というマイナスの言葉にかかっています。 芥川は、 「勇気」というプラスと合わせて使うことで、「盗人」というマイナスを帳消しにしているのではないかと私は考えています。 芥川は、あくまで中立の立場です。 何が善で何が悪かについて、芥川は一切触れていません。 この作者の姿勢が、「善悪」は簡単には決められないということを裏付けていると思います。 『羅生門』の朗読音声 『羅生門』の朗読音声は、YouTubeで聴くことができます。

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羅生門の感想文

羅生門 感想

Sponsored Link 『羅生門』あらすじ 平安時代。 飢饉や辻風(竜巻)などの天変地異が打ち続き、京の都は衰微していた。 ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人が途方に暮れていた。 下人は数日前、仕えていた主人から解雇された。 生活の糧を得る術も無い下人は、いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。 そんな折、羅生門の2階に人の気配を感じた彼は、興味を覚えて上へ昇ってみた。 すると楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられていた。 その中に灯りが灯っていて、なんと老婆が若い女の遺体から髪を引き抜いているのである。 老婆の行為に激しい怒りを燃やした下人は刀を抜き、老婆に襲いかかった。 下人が「なぜ死人の髪を抜いていたのか」問い詰めると 老婆は「抜いた髪でカツラを作って売ろうとしていた」と自身の行いを説明する。 「抜いた髪でカツラを作ることは、悪いことだろう。 だが、ここにいる死人はそれくらいのことをされてもいい人間ばかり」 「今髪を抜いた女は蛇を干したものを干し魚と偽って売っていた」 「それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。 」 「わしはあの女がしていたことも自分のしていたことも悪とは思わぬぞ」 「こうせねば餓死すると仕方がなくてしたことじゃから…髪を抜いたとて、この女は許すであろう」 髪を抜く老婆に正義の心から怒りを燃やしていた下人だったが、老婆の言葉を聞いて勇気が生まれる。 そして老婆を組み伏せて着物をはぎ取るや「己(おれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ。 」と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。 下人の行方は、誰も知らない。 Sponsored Link 『羅生門』意味・読書感想文の書き方(着眼) 羅生門の感想文(着眼) ・下人は「いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。 」の勇気とはどういうモノか ・下人はなぜ「老婆の行為に激しい怒りを燃やした」のか ・老婆の言う「ここにいる死人はそれくらいのことをされてもいい人間ばかり」の理由はなにか ・「それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。 」とはどんなことか 人は追い詰められた時、主体的に行動して(悪事を働いて)生きるか、それとも受動的に死ぬか。 との選択を迫られるかもしれません。 『羅生門』ではそんな生き抜くために悪事さえしなければならない苦悩や生きるための強い意志、人間の心の変わりやすさを垣間見る事ができます。 もし自分が下人の立場だったら、どんな行動をしたか?また読書感想文では自分がした経験の一つを記し、その経験から何を学んだかを記すことも評価対象になります。 ・悪事を働く勇気 通常の平穏無事な世界では、人の道を外れ、盗人などになるのは稀である。 だが飢饉や戦争、災害など異常な世界では、人間の良心など風前の灯のように、儚いものだ。 下人は、ろくな人間ではない者からは何をしてもよいと老婆から知らされる。 ならば自分もろくな人間ではない老婆を襲ってもいいのだとの理屈に行きつき悪事を働く勇気を得て老婆より追いはぎをして逃げていく。 『羅生門』は、言わずもがな、エゴイズム肯定への下人の心の動きが上手く表されています。 下人に因果応報はあり得るのだろうか?、自分がろくでもない人間に成り下がったことを、いつ知るのだろうか。 下人の行方は誰も知らないとのラストがピリリと効いている。 ・生存欲求はモラルより重視するものか 老婆から、生きるための「悪」は許されるべきだという理屈を聞きます。 極限まで追い詰められた人間のモラルとは?極限の状態では何が善で何が悪なのか?ただ文字を追うだけでもその内容と深く残酷な描写に圧倒されてしまうだろう。 その上でこの書が長く読み継がれているのは下人の心変わりの速さが表す本来誰もが持つエゴイズムを表現しているからであろう。 この本の世界同様、私たちが生きる現実世界もあらゆるレベルで何が正義か悪か分からないのが現実である。 ゆえ話に引き込まれ読後に不気味なものが胸を占めるのであろう。 ・なぜ羅生門での出来事なのか 羅生門とは、生きるつながりの門つまり羅生の「羅」は「全てのつながり」との意味が含まれてますから、つまり、胆略的にまとめると老婆がした行為は、下人によってまた老婆に帰ってくる。 つまり物事は羅生なのだ。 との意味合いが込められていると私自身は考えます。 元々は平城京の羅城門から来ているので、ただ、下人の行為が生きるために行うことの肯定だけを意味した作品なら、羅城門、もしくは羅刹門でも意味合いとして成り立ちますが、羅生門としている事から、因果つまり相手に行った行為は最終的には自分につながってくる。 との意味合いで生きる繋がり、羅生門と題名をつけたのだと考えました。 だた、あくまでも個人的な考えです。 ・正義の脆弱さ 下人は老婆の言う「生きるための悪は許される」の言葉でその直前までのモラル、正義感はあっさりとくつがえし「生きる事が正義」となった。 下人の新たな正義の為ならば方法を選ばないのが下人の行きついた先なのだ。 下人も老婆も平常時に出会ったならば眉をしかめたくなる存在である。 だが誰もが彼らを勧善懲悪だと強く言えないのは、それだけ個々の正義感とは状況により揺れ動く脆弱なものだと言えるからだろう。 正義とは都合なのかもしれない。 もし利他主義を軸として生きるならば、そうする事が都合が良いからと言える。 悪に見える利他主義エゴイズムも、また然りと言える。 人間だけが正義と悪のふり幅の大きな行動を取る生き物なのかもしれない。 ・悪事に正当性を求めていないか 生きるためにいかなる行動を取るべきか?を自分に問い詰めると胸が締め付けれられる気がする。 下人の行為は自分自身が窮地に立たされた時の姿かもしれないからだ。 最初は猛烈に老婆の悪事に対して、立ち向かう英雄のような下人。 ところが老婆の「生きる為」という正当防衛の意を含む言葉が、下人の中の悪を目覚めさせ正当化し、その責任を荒廃した社会のせいにしたのです。 ここに人間の心の弱さと愚かさをつくづく感じる。 だが下人を愚かと嘲ることができないのは、悪事をしなければ死ぬという追い詰められた状況は本当に個人の責任なのか?人間の心が弱くなるのは社会の影響も大きいのではないかと思えるのだ。 「生きるためにやった」と言えば許される世の中ではない。 なぜならそこに至るまで最大限の努力をしたか?が問われるからだ。 人は聖人君子にはなかなかなれるものではない。 だが自分の心の弱さや醜さを正当化し、自己都合を優先させたいがために責任転換する人間にはなりたくない。 エゴイズムは弱さから生まれてくるものだ。 関連記事&おすすめの記事•

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