ルイブライユ 点字。 トップ

手で読む心でさわる やさしい点字シリーズ

ルイブライユ 点字

当初、ルイ・ブライユは村の学校に通っていましたが、さらなる教育を受けるため、1819年にパリの王立盲学校に入学することになりました。 この王立盲学校の生徒たちの間で使われていたのが「浮き出し文字」という、もりあがった線をなぞって文字の形を読み取る方法でした。 しかし、この浮き出し文字にはいくつか問題があったと言われています。 例えば、単語を1つ読み終えるだけでも時間がかかります。 また、浮き出し文字の書物は学校の外には存在しないため、学校を卒業してしまうと浮き出し文字の読み方を忘れてしまう、と話す卒業生もいたそうです。 ルイ・ブライユが12歳となった1821年、シャルル・バルビエ(Charles Barbier 1767-1841)が暗い場所で暗号を伝えるために開発した軍事用の文字が盲学校に導入されました。 この軍事用の文字は点と線から構成されているので、浮き出し文字に比べて場所をとらない利点がありました。 ルイ・ブライユもシャルル・バルビエが考案した軍事用の文字を使っていましたが、目の見えない人にも使いやすい、数字や音楽を表現できる方式に改良しようとしました。 ルイ・ブライユは学校の授業の合間を縫い、クラスメートと議論しながら実験と研究を重ね、1825年に6つの点から構成される点字方式を考案しました。 4年後の1829年には、この点字方式の解説書が出版されます。 こうしてブライユ点字は誕生しました。 卒業後も教員として盲学校に残ったルイ・ブライユは、さらに改良を加え、1837年にブライユ点字を完成させたと伝えられています。 ルイ・ブライユが生み出したこの点字は、アルファベットはもちろん、数字、アクセント記号、音楽を表現できるため、目の見えない人々は、文学活動をおこなう手段や、音楽を楽譜として書きとめる方法を手に入れました。 1840年になると、新しく就任した盲学校の校長の方針により、学校内で点字の使用が制限された時期もありました。 しかし点字の実用性の高さから、それも長くは続かなかったようです。 1852年、ルイ・ブライユは肺結核により43歳で息を引き取りました。 祖国フランスでブライユ点字が正式に採用されたのは、その2年後、1854年のことです。

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企画展「点字の考案者ルイ・ブライユ生誕200年記念・・・点天展・・・」

ルイブライユ 点字

点字の仕組みを考えたルイ・ブライユがどんな人だったのかについて紹介しています。 1809年生まれのフランス人 ルイ・ブライユは1809年に生まれたフランス人です。 ちなみに誕生日は1月4日。 「ルイ」が名前で、「ブライユ」が苗字。 苗字というのは山田太郎であれば、「山田」のほうのこと。 ちなみに「ルイ」というのはフランスでは多い名前です。 ルイ14世という王様が有名ですね。 カバンなどで世界的に有名なブランドの「ルイ・ヴィトン」も、創設者の名前「ルイ・ヴィトン」から命名されたものです。 ルイ・ブライユが生まれたのは日本では江戸時代 ルイ・ブライユが生まれた1809年というのは日本では江戸時代。 徳川第11代将軍家斉のときになります。 いまから200年以上前なので、ずいぶん昔ですよね。 二宮尊徳(金次郎)が生きていた時代(1787年から1856年)と重なります。 小学校に二宮尊徳の銅像がある人は見てみると、どんな時代かがわかると思います。 3歳で失明してしまった ルイ・ブライユの父親は馬具屋を営んでいました。 両親がいないときに職場で遊んでいた3歳のルイ・ブライユは誤って刃物で目を突いてしまいます。 このことが原因で片目を失明。 5歳のときには、感染症により両目を失明しました。 目が見えなくなってしまったルイ・ブライユは盲学校に通います。 そこで、点字に出会います。 その当時、使われていた点字はシャルル・バルビエという軍人が考えたもので、12個の点を使って文字を表わすものでした。 新しい点字のしくみを作る 12個も点を使う点字は難しかったこともあり、ルイ・ブライユはこれをもっと簡単なものに出来ないかと考えました。 そこで思いついたのが6個の点を使う方法。 6個の点を使ってアルファベットや数字を表わす新しい点字の仕組みを完成させました。 英語になったブライユ 点字のことを英語ではブライユ(braille)と言います。 これはルイ・ブライユの名前から付けられました。 自分の名前が英語になって、それが何かを表わす言葉に使われるってスゴイことですよね。

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【小学校国語】6点点字考案者

ルイブライユ 点字

クブレ村のブライユ生家 北東に約40キロメートルに位置する村に 、職人である父シモンと母モニクの間に4人兄弟の末っ子として生まれる。 、3歳の時、自宅にあったシモンの工房で遊んでいるうち、誤って事故によりで左目の眼球を突き負傷する。 その後、右目もを起こし、5歳で両目とも失明する。 1800年代初頭の当時においては、ブライユのように障害のある子どもに対しては教育は不必要とされており、不遇な目に遭うことがほとんどだったが 、ブライユは家族の協力もあり生活能力や知識を身につけていく。 6歳の時、村にやってきた神父ジャック・パリュイにその聡明さを見出されたブライユは、7歳になるとパリュイ神父から村の学校のアントワーヌ・ベシュレ校長への取り計らいで村の学校に通い、他の生徒と同じように授業を受け、優秀な成績を収めた。 学校での成績や「自分で読み書きがしたい」というブライユの願望に 、さらに進んだ教育が必要と感じた周囲の援助もあり 、村の侯爵は、 ()が設立したパリの王立へ入学のための推薦状を送った。 そのことが認められて、、ブライユは同校に奨学生として入学することになる。 、ブライユは10歳でパリの王立盲学校に入学。 同時期、フランス軍の、 ()が考案した ()(夜間文字 、暗やみの字 )と呼ばれる12点式の暗号に出会う。 ブライユはこれを元に6点式の点字を発明した。 ブライユはパリ盲学校を卒業し、同校の教官になった。 王立盲学校は沿いにあり、建物がもともと監獄として使われ、古く多湿で非衛生的だったため、100人近くいた生徒も不健康な状態であったせいもあり 、ブライユが26歳のとき肺結核となる。 晩年は盲学校教師としてを取り、また教会のを演奏するなどして活躍した。 その傍ら・視覚障害者両用の点文字の開発に勤しんだ。 この点文字は、はじめブライユが点字器で試みたものをブライユの友人の盲人であるピエール・フランソワ・ヴィクトル・フーコーが独特の機械を開発し、のちに ()と呼ばれるようになった。 その方法はの普及にともない廃れて、現在では使用されていない。 ブライユはにのため43歳で亡くなった。 死後百年にあたる、ブライユの遺骸は故郷のクヴレ村からパリに移され、やなど多くの国民的英雄を祀るに葬られた。 クヴレ村ルイ・ブライユ通り13番地にあるブライユの生家は点字として公開されており、世界中の視覚障害者たちが訪れ、盲人たちに光をもたらしてくれたブライユの遺徳を偲んでいる。 その誕生日にあたる1月4日は2000年にによりとされた。 9969 のは、ブライユの名ににちなみ命名された。 "ルイ・ブライユ"のブライユ式点字表記 ブライユが王立盲学校に在学していたころ、バルビエが夜間の伝言で用いる ()(夜間文字 、暗やみの字 )と呼ばれる12点式の暗号を考案し 、普及しようとしていた。 バルビエは、ソノグラフィを視覚障害者に有益と考え王立盲学校を訪問していたが、当時の校長は採用しなかった。 その後、校長が変わって、盲学校で試験的に12点点字を使用することが決まる。 それ以前、のためのは、図画盤というざらざらした板に紙を乗せ、先のとがった物で左右が逆の文字を書いていたが、この方式は視覚障害者自身が上手に書くことは非常に難しかった。 その後、やの書き方も定め、これが世界中で使われる点字となった。 脚注 [ ]• 102. , p. , p. 102. , p. , p. 10-11. 83-90. , p. , p. , p. [] 参考文献 [ ]• 広瀬浩二郎、嶺重慎『さわっておどろく!:点字・点図がひらく世界』岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、2012年。 『岩波世界人名大辞典:第2分冊 トーン 付録・索引 』岩波書店辞典編集部、岩波書店、2013年。 マイヤリーサ・ディークマン/著、森川百合香/絵『暗やみの中のきらめき : 点字をつくったルイ・ブライユ』古市真由美訳、汐文社、2013年。 『ルイ・ブライユと点字をつくった人びと』高橋昌巳/監修、こどもくらぶ/編、岩崎書店〈調べる学習百科〉、2016年。 ジェン・ブライアント/文、ボリス・クリコフ/絵『6この点:展示を発明したルイ・ブライユのおはなし』日当陽子訳、岩崎書店、2017年。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 Pamela Lorimer 1996 ,•

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