北条 政子。 日本三大悪女とは!北条政子・日野富子・淀殿の3人をご紹介します|気になる話題アラカルト

北条政子から学べる教訓 何した人か5分で解説【人を動かすために必要なこと】

北条 政子

家系図 夫婦・北条政子と源頼朝のそれぞれの家格 清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の三男として生まれた頼朝。 天皇家から源姓を賜って臣下に下った家柄です。 天皇と繋がる源氏は、貴人として格上の家系でした。 一方、政子の家系である北条氏は、 伊豆国の地方官吏をしていた豪族です。 政子の父親以前の系譜がはっきりせず、 桓武平氏か伊勢平氏の子孫という史料もありますが、 系譜が正確に伝わるほどの家系ではなかったと考えられています。 つまり、頼朝が流人という立場で、 北条氏がそれをバックアップするという状況がなければ、 家格からいって北条氏は源氏の相手になるような家系ではありませんでした。 政子と頼朝の子供全滅の中で唯一残った貞暁も・・・ 政子と頼朝との間には 4人の子供がいました。 第一子と三子の長女大姫と次女三幡(さんまん)は共に若くして病死します。 第二子と四子である 2代将軍頼家と3代将軍実朝はそれぞれ暗殺されてしまいます。 これで、政子の子供は 全滅です。 頼朝には島津忠久、大友能直(よしなお)が庶子だという話しもありますが、 現在のところは頼朝の子であったとは正式には認められていません。 そして、ただ一人庶子として認められているのが 頼朝と大進局という大倉御所(鎌倉幕府の将軍の御所)に出入りしていた侍女との間の子、 貞暁(じょうぎょう)。 実朝より6つ年上の貞暁でしたが、 出家していましたので、 彼が亡くなった時点で源頼朝の男系男子の子孫は断絶してしまいました。 執権としての北条氏 源頼朝の実子が亡くなってしまった後は、 北条氏が鎌倉幕府の執権職を世襲するという独壇場となります。 北条氏の歴代執権 政子の父親北条時政から始まった執権職は、 16代執権北条守時まで 130年間続きます。 初代・時政の時代からかなりの勢力を持ってはいましたが、 3代将軍実朝暗殺後からというもの、 殆ど全ての幕府の実権を掌握。 一応将軍職は公家や皇族を京から迎えていましたが、 所詮それらの将軍は傀儡(かいらい/操り人形)にすぎず、 実権は北条氏にありました。 北条氏の嫡流は「 得宗(とくそう)家 」と呼ばれ、 その当主か後継者が幼い場合には庶流から執権が選ばれました。 おもだった執権を列記します。 おもだった執権 ・2代執権 北条義時: 政権安定の時代 ・3代執権 北条泰時: 武家政権のための法令集・御成敗式目をまとめ御家人支配を強固に ・5代執権 北条時頼: 摂家将軍の反抗の危機を、6代将軍宗尊(むねたか)親王を迎えて乗り切り、朝廷との関係を強化 ・8代執権 北条時宗: モンゴル帝国の二度にわたる侵攻(元寇)を退けることに成功 ・14代執権 北条高時: 後醍醐天皇の挙兵を未然に防止 ・16代執権 北条守時: 後醍醐天皇1333年の再度の挙兵。 足利尊氏や新田義貞により鎌倉幕府は滅亡。 同時に北条一族もほぼ滅亡。 その後も残党が各地で反乱を起こしますが、いずれも失敗しています。 しかし、全国に散らばった北条家の支流は継承されていた様子で、支流の横井氏の末裔が明治時代に男爵となっています。 戦国武将北条早雲は執権北条氏の子孫? 誤解されることが多々あるようですが、 戦国大名のはしりとなった北条早雲(そううん)の 「 後北条氏 」と「 執権北条氏 」の間には、 血縁関係はないとされています。 初代後北条氏である早雲のときは、 まだ伊勢氏を名乗っており、 二代目の氏綱のときに北条氏に改姓。 伊勢氏は、伊勢平氏を先祖とし、 家格としても大名に相応しいものでした。 それでもなお北条の姓を選んだのは、 かつて鎌倉時代に相模国を支配した執権北条氏と同族であることを顕示し、 相模支配の正当性を主張するのが狙いだったとか。 確かに、元々執権北条氏は桓武平氏か伊勢平氏を祖とする可能性が無くはなく、後北条氏は伊勢平氏を祖とする名門。 二家の家紋は両方とも「 三つ鱗(うろこ) 」と呼ばれる三つの三角形を積み重ねた形とそのアレンジバージョンです。 家紋が似ていることもあって、 北条早雲が執権北条氏の子孫だと誤解されることもあるようですね。 おわりに 130年も続いた北条氏の時代も、時が来れば終焉を迎えてしまいます。 北条政子の献身によりあれほどの権力を持った北条氏も、 これ以降は歴史の表舞台からは姿を消してしまいました。 歴史は常に動いていると感じさせられます。 [関連記事].

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伊豆・蛭ヶ小島 源頼朝と北条政子の駆け落ち〜闇夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る…

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北条早雲、プロフィール 北条早雲(ほうじょうそううん) 出身地:備中(岡山県) 生誕:1432年 死没:1519年8月15日 享年:88歳(病死) 時代:室町時代 北条早雲って何した人?どんな人? 北条早雲は、「最初の戦国大名」です。 自らの力で、伊豆、小田原の領土を手に入れ、その後も農民を大切にしました。 ここでは、北条早雲の かんたんな経歴を紹介していきますよ。 かんたんな経歴 当時、室町幕府の権力はおとろえていました。 地方では、実力のある守護大名(地方を支配した領主)が、幕府を無視して領地を支配するようになっていました。 またその中でも、守護大名の家臣が、主君を倒し、権力をにぎったりもしていました。 このように、実力で地方を支配した領主を「戦国大名」といい、戦国大名たちが全国統一をめざした時代を「戦国時代」といいます。 北条早雲は「最初の戦国大名」で、彼が伊豆をうばった1493年から「戦国時代」がはじまったという人もいるのです。 北条早雲は、もともとは室町幕府(京都)の家臣でした。 駿河(静岡県)で後継ぎ争いが起こった時、早雲は京からかけつけて争いを解決します。 この手柄によって、駿河の興国寺城(こうこくじじょう)の城主となりました。 そして伊豆(静岡県)は、当時、足利氏が支配していたのですが、伊豆でも後継ぎ争いが起きていました。 「今なら伊豆をうばえる!チャンス!」と考えた早雲は、わずかな兵をひきいて足利氏の館をおそい、実力で伊豆をうばいとったのです。 早雲は伊豆に韮山城を築くと、次は小田原城(神奈川県)をうばいます。 さらに東へ攻めて、三浦半島もうばいました。 相模(神奈川県)の領主となった早雲は、 農民を大切にする政治をしました。 田畑の面積や、取れた米の量などをくわしく調べて年貢を減らし、農民にやり過ぎな負担がないような政治にしたのです。 北条政子や北条時宗とは、名字が同じだけどどんな関係? 「北条」といえば、北条早雲、北条政子、北条時宗などいろいろな有名人がいますね。 同じ北条ならみんな関係があるの?って事ですよね。 これは、実はあまり関係がありません。 というか、 全然関係ありません。 さらに、北条早雲は「北条」とは名乗っていません。 息子の代からです。 早雲が生きている時は、 伊勢宗瑞(いせ そうずい)と名乗り、呼ばれていました。 なぜ北条を名乗りだしたのかというと、北条早雲(の息子)は、関東の大名だったため鎌倉時代の「北条」を尊敬し、あやかって「北条」と名乗りだしたのです。 だから、鎌倉時代の「北条」と、北条早雲からの「北条」は、まったく関係ないのです。 北条時宗も、鎌倉時代の武将ですから関係ありません。 こちらの記事で、北条政子について、かんたんにわかりやすく紹介していますよ。 まとめ 北条早雲は「最初の戦国大名」で、戦国時代を開いた人物でもあるのですね。 実力で領土を手に入れて、農民を大切にする政治をおこなったということで、相当なやり手であることがわかります。 「北条」は「北条」でも、鎌倉時代の「北条政子」らとはまったく関係がなかったのですね。 のちに、勝手に名乗りだしたようです。 北条早雲は、現代でもけっこうな人気の偉人です。 ということで、 北条早雲を5分で!北条政子や北条時宗とはまったく関係ない?でした。 最後まで読んでいただきありがとうございます^^.

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北条政子の演説

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北条政子の生い立ちは? 北条政子は伊豆国の豪族の長女 北条政子は源頼朝が流された伊豆国の豪族、 北条時政の長女です。 その土地の有力者であった政子の父の北条時頼は、 源頼朝の監視役という大役を任されていました。 しかし年頃でもあった北条政子は 父の北条時政が仕事で京都に行っている間に、源頼朝と恋仲になってしまったのです。 北条時政は、罪人として伊豆国に来ていた源頼朝と自分の娘が恋仲になったと知って、二人の関係を良く思いませんでした。 北条政子と源頼朝が結婚しないように、北条政子に別の婚約者を用意します。 しかし結婚するために相手の館へ向かう際、 北条政子は逃げ出して源頼朝の元へと向かったのです。 娘の行動力と源頼朝に対する愛情を知って観念した北条時政は、源頼朝と北条政子の関係を認めて、源頼朝の強力な後援者となった、という記録が源平盛衰記に残っています。 晴れて源頼朝と結婚した北条政子は、その後まもなく 源頼朝の第一子、 大姫を出産しました。 その後も源頼朝との間に頼家、実朝の男児2人、三幡の女児を産んでいます。 4人の子を源頼朝の設けて幕府が長く続くきっかけも作った北条政子が悪妻、日本三大悪女の一人とよばれるのは何故でしょうか? 源平盛衰記とは、鎌倉時代から室町時代に記された、歴史上の戦を題材にした物語です。 北条政子は悪妻で日本三大悪女の一人?怖いエピソードを紹介 北条政子の怖いエピソード1:源頼朝の浮気相手を問い詰める ここからは北条政子が悪妻、日本三大悪女の一人と言われている理由が分かるエピソードを紹介していきます。 まず最初に紹介するエピソードは、源頼朝の浮気相手を問い詰めたというエピソードです。 北条政子が源頼朝との間に第2子、源頼家を身籠っているときに浮気をしてしまいます。 相手の女性の名前は 亀の前という女性です。 北条政子は頼朝の浮気を怒り、嫉妬にかられて怒り狂います。 怒った北条政子は北条時政の後妻、牧の方の父の牧宗親に命じて 亀の前が暮らしていた伏見広綱の邸宅を家臣に打ち壊させました。 亀の前は何とか邸宅から逃げ出しましたが、この事件を知った源頼朝は怒ります。 源頼朝は亀の前の住居を襲った張本人、牧宗親の髻(もとどり)を切り落としてしまいます。 この源頼朝の行為に起こった北条時政が、 一族で伊豆に帰っていくという事態にまで発展しました。 それでも怒りが収まらなかった北条政子は、亀の前を邸宅に住まわせていた伏見広綱を遠江の国に流罪にします。 今では立派な犯罪の浮気ですが、北条政子が生きていた時代はまだ 一夫多妻が普通でした。 このエピソードからは、 北条政子がとても嫉妬深い性格が分かります。 髻とは、髪の毛を頭の上で束ねたものです。 貴族階級の男性だする髪型で、髻を切り落とすという罪がありました。 北条政子の怖いエピソード2:上皇を流罪にする (承久の乱が起こり尼将軍と呼ばれるきっかけ) 3代で源氏の将軍が途絶えてしまった後、源頼朝の妻である北条政子の実家、北条家が鎌倉幕府の実権を握ることになります。 後鳥羽上皇は北条家が幕府の実権を握ることをよく思わず、承久の乱をおこします。 承久の乱が起こって困惑する御家人に、 北条政子は有名な演説を行い、幕府軍を勝利に導きました。 これが、北条政子が後に 尼将軍と呼ばれるようになった理由です。 北条政子は幕府軍が勝利すると、後鳥羽上皇を隠岐の島へ流罪にするように命じました。 上皇を流罪にするというこの行為が、北条政子が悪女と言われるようになった理由になっています。 北条政子が悪妻、日本三大悪女の一人と言われる理由は2つ 北条政子が悪妻と呼ばれ、日本三大悪女の一人と呼ばれるようになってしまった理由は、主にこの2つです。 嫉妬深過ぎて源頼朝が他の女性との間に子供を設けることができず、後継者不足を招いた• 朝廷と争って、上皇を流罪にした 一夫多妻が普通だった時代、しかも将軍の妻であるのに嫉妬深さが原因で夫が他の女性との間に子供を設けることができなかったことが、源氏の将軍がたった3代で途絶える原因になっています。 さらに上皇と争って流罪にしたことも、後の世で北条政子の評判を落とすことになりました。 まとめ いかがでしたか?今回は北条政子が悪妻、日本三大悪女の一人と言われる理由をエピソードを混ぜて紹介してきました。 尼将軍とも呼ばれる北条政子ですが、性格は嫉妬深い女性でした。 その結果後継者不足を招き、承久の乱のきっかけを作ってしまっています。 さらに後鳥羽上皇を流罪にしたことで、悪評が高まってしまったのです。 悪評もありますが、北条政子が時代の流れを動かす原動力になっていたことも事実です。 関連記事.

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