レオナルド ダ ヴィンチ 作品。 日曜美術館「すべてはレオナルド・ダ・ヴィンチから始まった」「高橋秀・藤田桜」(2020.05.17)

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と代表作・作品解説

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

レオナルド・ダ・ヴィンチとは? レオナルド・ダ・ヴィンチ (全名:レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ, 1452~1519年)とは、イタリアのルネサンス時代に活躍した画家、建築家、発明家であり、その他にも生理学、天文学、地質学、物理学、力学、土木工学など、非常に多くの分野において業績を残し、また歴史的価値の高い手稿を残した人物です。 彼の生まれ持った他分野に渡る天才性は、 幅広い知識と尽きない興味や創造的活動で知られたルネサンス的教養人の典型であると言え、人類史上最も多才な人物だったのではないかという意見もある「 万能の天才」。 ダ・ヴィンチは、美術は科学や自然と密接に結びついていると信じていたこともあり、その考えが彼の万能性を引き出しました。 そして、今日においてダ・ヴィンチは主に画家として有名で、特に「 モナ・リザ」と「 最後の晩餐」の2つは、世界で最も有名で愛されている絵画であると言えるでしょう。 一方で、公式な教育をほとんど受けずに全てを独学したのにも関わらず、レオナルド・ダ・ヴィンチは、深い知識を応用して様々な発明をし、それを何十冊ものノートに残しました。 そのノートには、航空学から解剖学に至るまで、様々な分野の研究結果や理論などが記されており、優れた頭脳と想像力を組み合わせて、少なくとも紙面上では、 自転車やヘリコプター、飛行機などといった発明を生み出すことに成功していたのです。 しかし、当時の世界はまだようやく活版印刷術を使って本を作り知識を共有するようになったばかり。 加えて、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに書かれた内容は、非常に難しいものばかりだったため、画家としてはとても称えられましたが、当時、科学者としての才能と天才的な頭脳はあまり理解されていなかったのも事実でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と人生 生い立ちと教育 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日、現在のイタリアのトスカーナ地方、アンキアーノという村で生まれました。 (出典:) これはヴィンチ村から3kimほど郊外にあった集落で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「 ダ・ヴィンチ」とは「 ヴィンチ出身の」という意味です。 レオナルド少年は私生児だった レオナルド・ダ・ヴィンチの父親は弁護士で公証人、母親は農家の娘でした。 しかし、父と母は結婚することなく、また、二人の間には他の子供もおらず、母カテリーナはレオナルドがまだ幼い頃に別の男性と結婚し新たな家族を作りました。 また、父と母はそれぞれ別の人と合計で17人の子供をもうけたと言われます (つまり、レオナルドと半分血のつながった兄弟が17人いた)。 このような境遇の中で5歳になる頃からレオナルドは、父セル・ピエロが所有するヴィンチ村の邸宅で暮らすようになり、この暮らしの中でレオナルド少年は、自然に対して強い興味を持っていた叔父から大きな影響を受けるようになります。 ただ、セル・ピエロにとっては私生児であったため、 レオナルド少年は簡単な読み・書き・計算以外には、正式な教育を受けることがありませんでした。 フィレンツェにおけるレオナルド・ダ・ヴィンチの初期のキャリア形成 レオナルドへ満足のいく教育を受けさせなかった父のピエロですが、彼の美術的才能を認め、レオナルドが15歳になった時、当時有名な画家であり彫刻家であったフィレンツェ人の アンドレア・デル・ヴェッキオの下に弟子入りさせます。 これが、レオナルド少年が世紀の天才画家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」として後世に名を残す始まりとなったのです。 (出典:) そこで約10年間、ダ・ヴィンチは画家・彫刻家としての腕を磨き、また機械技術に関しても学びました。 そして1472年、レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の時、フィレンツェの画家ギルドに認められ、「マスター(親方)」の称号を獲得します。 しかし、ダ・ヴィンチは独立することなく、ヴェロッキオの工房に留まりました。 1478年に独立 1478年1月、レオナルド・ダ・ヴィンチは最初の独立した絵画制作依頼を受け、ついに画家として独立を果たします。 その制作依頼とは、 ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼でした。 また1481年5月には、サン・ドナート・スコペート修道院から「 東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けています。 しかし、 レオナルド・ダ・ヴィンチが、これらの作品を完成させることはありませんでした。 彼はミラノのスフォルツァ公に召喚され、エンジニア、建築家、宮廷で行われる舞踏会などのデザイナー、そして特に彫刻家として活動するためにミラノへ移住したのです。 ミラノでの活動開始から世界的有名な作品が出来るまで ミラノへやってきたダ・ヴィンチはまた、スフォルツァ一家から、高さ5メートルもなる初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァを記念した 巨大な騎馬像の制作依頼を受けます。 その結果、レオナルド・ダ・ヴィンチは、時に他のことをしながらも、 12年間の長期に渡ってこのプロジェクトに挑み続け、1493年には粘土の模型像を発表する用意を整えました。 しかしフランスとミラノの戦争「 第一次イタリア戦争」の開始が目前に迫った状況で、1494年11月には、銅像作成のための青銅がすべて大砲の制作素材として流用されてしまいます。 さらに1499年には、第一次イタリア戦争に失敗したフランスが再度イタリア半島の掌握を目指して侵攻してきた「 第二次イタリア戦争」が勃発。 フランスの目論見自体は失敗しましたが、この戦争の結果、 ミラノのスフォルツァ公が力を失うとミラノは混乱に陥り、粘土の模型像も破壊されてしまったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と「モナ・リザ」はこの頃に描かれた 初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を請け負っていたこと、さらに他の活動にも精を出していたことから、画家または彫刻家としてのダ・ヴィンチは寡作 (芸術家などが作品を少ししか作らないこと)でした。 そのため、現在まで残っている彼の作品はごく少数。 しかしそのうち2つは、世界で最も有名な絵画作品の一つとなっています。 この絵画は石膏上に描かれた壁画で、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれています。 そして名前の通り、聖書に登場する最後の晩餐シーンを描いており、イエス・キリストが弟子たちに向かって「 この中の誰か1人が私を裏切るだろう」と発言した場面をとらえているのです。 また、この絵画の特徴的な点は、各弟子たちの感情表現と動的なしぐさだと言われます。 「 弟子たちの中心にいながらもどこか1人浮いているキリスト」という構図は、以後何世代もの画家たちに影響を与えました。 ちなみに、この作品のモデルとなったミステリアスな微笑みで有名な女性の正体については、「いったい誰なのか?」と、何百年もの間議論がなされてきました。 そして、少し前までは高級娼婦ではないかという意見を始め10名以上の異なる人物が挙げられていましたが、最近ではフィレンツェの商人フランシスコ・デル・ジョコンドの妻「リザ・デル・ジョコンダ」であるという説が主流となっています。 現在、モナリザはフランスのルーヴル美術館に所蔵されており、毎年何百万もの見物客がこの絵画を一目見ようと訪れています。 ミラノへ戻ったレオナルド・ダ・ヴィンチ 1506年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは何人もの弟子を連れてミラノに戻ります。 そのうちの一人、若い貴族のフランチェスコ・メルツィは、ダ・ヴィンチが亡くなるまで最も親しい友人であり続けました。 一方で、スフォルツァ公の後を継いでミラノ公となったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ公は、騎馬像の形をした自らの墓の設計をダ・ヴィンチに依頼。 しかし、皮肉になことにこの騎馬像もまた完成することはありませんでした。 これは、トリヴルツィオ公が計画を途中で諦めてしまったからだと言います。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、1507年に一度フィレンツェに戻っていますが、1508年にはミラノへ戻ってきており、最終的には1513年までこの地で暮らすこととなります。 レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年 7年間ミラノで過ごしたレオナルド・ダ・ヴィンチは、政治的な対立により再びミラノで暮らしていくことが困難になると、ローマに移ってそこで3年間暮らします。 この頃ダ・ヴィンチは、ヴァチカンのベルヴェデーレで多くの時を過ごしたと言われます。 そして1516年、 フランス国王「 フランソワ1世」に招かれたダ・ヴィンチはイタリアを離れ、その後、イタリアへ戻ることはありませんでした。 フランソワ1世はダ・ヴィンチに「 国王専属の画家、技術者、そして建築家」の称号を与え、フランスのアンボワーズ城近くのクルーの館に住まわせ、この環境のおかげで、ダ・ヴィンチは自由に絵画制作や研究に没頭することができました。 また、ダ・ヴィンチはお気に入りの弟子「メルツィ」を一緒に連れていき、他の弟子や友人達とも一緒に時間を過ごしていました。 そのような生活を送っていた1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはクルーの館で亡くなります。 享年67歳でした。 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺産や墓 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺体は、アンボワーズ城敷地内のサン・フロランタン教会に埋葬されました。 しかし、フランス革命によってこの教会の大部分が破壊され、また19世紀諸島には老朽化のため取り壊された結果、現在遺体は、 サン・テュベール礼拝堂に埋葬されているとされます。 一方でダ・ヴィンチは、自らのお気に入りの弟子であるメルツィへ、金銭的遺産だけではなく全ての遺産を遺したため、メルツィはそれら全てを相続することになりました。 レオナルド・ダ・ヴィンチの人生を象徴する「万能の天才」について レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を歴史の流れを追いながら見てきたわけですが、彼の人生を語る上で忘れてはいけないのが、ダ・ヴィンチの興味関心は美術の領域をはるかに超えていたことでしょう。 彼は自然科学、解剖学、機械工学、物理学、建築学、兵器製造術などを学び、また自転車やヘリコプター、潜水艦、戦車なども設計しました。 ダ・ヴィンチの残した発明のデザインは非常に正確で、実用化可能なものが多かったと言われますが、これらが実際に作られるようになったのは何百年も先のことです。 ある意味でダ・ヴィンチは、「 まだ皆が眠っている時に一足先に目覚めてしまった人」だったのです。 異なる分野を結びつけた一つの要素 ダ・ヴィンチの多岐に渡った興味と才能を結びつけたものとして、一つの要素を挙げることが出来るかもしれません。 それは、レオナルド・ダ・ヴィンチが「 視覚こそが人間の最も重要な感覚である」と信じていたことです。 ダ・ヴィンチは 「 見方を知ること」こそが、人生を豊かにして創造的に生きるためには欠かせないと考えていたのです。 その結果、 「美術」と「科学」を対象的なものではなく、むしろお互いを補完するものであると捉え、全てのアイディアはつながっていると考えたようなのです。 他分野に渡る関心は未完の作品を残した しかし、あまりにも多くの物事に関心を持ってしまったため、その生涯の中でダ・ヴィンチは、しばしば絵画やプロジェクトを未完成のまま放置してしまう傾向にありました。 例えば、画家として独立した初期の頃に依頼された、ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼や、サン・ドナート・スコペート修道院からの「東方三博士の礼拝」の制作依頼は、その典型例でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然と触れ合って過ごし、科学の法則を実験で確かめたり、動物や人間の体を解剖したり、気づいたことについて考えたり書き留めたりすることに多くの時間を費やしたため、画家としての仕事が疎かになってしまうことが多々あったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿 一方で、1490年代前半頃からダ・ヴィンチは、これらの研究をまとめたノートを作成するようになります。 何千というページが丁寧なイラストや細かく記されたコメントで埋め尽くされ、中には左利きの鏡文字で書かれているため、誰にも理解できないものもあります。 これらのノートは、しばしば「 レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」と呼ばれ、彼の死後、世界中に散らばり、現在いくつかの博物館・美術館でバラバラに保管されています。 例えば、「レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」の一部である「 アトランティコ手稿」は、ミラノのアンブロジアーナ図書館に収蔵され、 コウモリの生理学や航空学、物理学の研究を基にして考案された飛行機のような物の設計図が記されています。 また、イギリスのウィンザー城に収蔵されている「 ウィンザー手稿」には、人間の骨格、筋肉、脳、消化器や生殖器官などの解剖学的研究が綿密に記されており、この研究によって、人体の作りに関する正しい知識がより多くの人へ広まりました。 合わせて読みたい世界雑学記事• ダ・ヴィンチは人類史上における最も優れた万能の天才と言われ、彼が遺してきた絵画や研究結果をまとめたノートは、数百年以上経った現在でも、多くの人の興味を引いています。

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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは?その天才性と作品の謎も解説

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

ダ・ヴィンチの生い立ち レオナルドは1452年、イタリアのアンキアーノ村で生まれた。 5歳からすぐ隣のヴィンチ村に移り住んだ。 ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチは公証人を務め、家は裕福であった。 母カテリーナ Caterina は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。 幼少期の彼は、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。 当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。 フィレンツェでヴェロッキオに弟子入り 15歳前後でフィレンツェに移り、画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。 この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。 レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。 1482年から1499年にかけて、レオナルドはミラノ公イル・モーロに仕えながら、自分の工房を開いて独立。 その後はミラノ、フィレンツェ、ローマ等を転々としながら活動を続けた。 1516年からは、フランソワ1世の庇護を受け、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館(クロ・リュッセ)に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。 レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な作品 レオナルドは1503年にこの絵を描き始め、3年かおそらく4年後まで筆を入れた。 モナ・リザのモデルが誰であったのかはわかっていない。 同じ図柄の作品が織りなすミステリー 謎多きダヴィンチの宗教画 母から娘へ 娘から子へ 時代を超えて受け継がれる神の教え 若き日のダヴィンチによる事実上のデビュー作 ダ・ヴィンチのパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描かれた絵画。 関連ページ ゴッホ、ピカソ、ルーベンス、フェルメールなど、世界的に有名な画家による絵画・美術作品の解説.

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レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と代表作・作品解説

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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とはどんな天才? 「万能の天才」と呼ばれるルネサンスを代表する芸術家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア語・英語: Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)は、イタリア・ルネサンスを代表する芸術家で、「万能の天才」と呼ばれるほどにさまざまな分野で活躍しました。 絵画においては人間復興を目指したルネサンスを体現するごとく、徹底したリアリズムで人物描写を行い、さらに彫刻家・建築家としても活躍しました。 さらに、解剖学、機械発明などにおいても多くの手稿を残し、「万能の天才」と呼ばれます。 加えて、歴史学者パオロ・ジョヴィオらの記録によれば、レオナルドは「並外れた美しい容姿」をした、華があって優美な人物だったとされ、巻き髪を胸元まで伸ばし、綺麗に整えていたといいます。 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とは「ヴィンチ村のレオナルド」という意味 レオナルド・ダ・ヴィンチとは、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味です。 出生名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村のセルの息子のレオナルドという意味)だったとされますが、早い段階で「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と名乗るようになりました。 父親は先祖代々公証人の仕事をする裕福な家系でした。 父の正式な名前は「セル・ピエロ・ディ・アントニオ・ディ・セル・ピエロ・ディ・セル・グイド」(グイドの息子のピエロ、さらにその息子のアントニオの息子のピエロという意味)という名前です。 当時の慣習では、自分の祖先や父親の名前を「~の息子」という意味の「ディ」という語でつなげた正式な名前のほかに、職業などからつけたニックネームを持つのが一般的でした。 レオナルドの名前はそのような慣習から外れた、珍しい名前を名乗っていたことになります。 レオナルドは私生児として生まれて複雑な幼少期を送ったため、自分の名前から父親や先祖を外したのかもしれません。 「ヴェロッキオ」の弟子からスタートし、晩年はフランスで過ごした レオナルドの芸術家としての人生は、フィレンツェに出て、ヴェロッキオ(1435年頃~1488年)に弟子入りすることから始まりました。 ヴェロッキオは彫刻、絵画、建築など多彩な才能を持ち、大きな工房を構えていました。 レオナルドは、ヴェロッキオの多彩さと、古典美を描く革新的な手法や人体の解剖への興味を受け継ぎました。 20代の後半に独立したレオナルドは、ミラノに移ってミラノ公に仕えます。 この時代には多くの教会を設計し、代表作となる『最後の晩餐』の壁画も手掛けます。 50代には、軍人チェーザレ・ボルジアに、芸術家としてではなく軍事技術者として仕えます。 最晩年はフランス王フランソワ1世の国王づきの芸術家・技師として迎えられ、アンボワーズ城に隣接するクロ・リュセ城に住み、そこで息を引き取りました。 レオナルドの墓はアンボワーズ城内の教会にありますが、本当に埋葬されているのかは実証されていません。 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の芸術の特長とは? レオナルドの手稿 (出典:Adobe Stock) 「スフマート技法」や「空気遠近法」を開発し「リアリズム」を追求した フレンツェから40キロほど離れた自然豊かなヴィンチ村に生まれたレオナルドは、幼少期から自然観察に没頭しました。 のちにレオナルドは、自然界には輪郭がないことから、輪郭を描かずに絵を描く「スフマート(ぼかし)技法」を発明します。 ほかにも「遠くのものは青みがかって見える」という発見から、遠近を色彩のグラデーションによって表す「空気遠近法」を開発します。 これらの技法は、子供の頃から親しんだ自然の観察から生まれました。 レオナルドが追求した遠近法や、自然を写し取るリアリズムの手法は、レオナルド以前にはみられない独創的なものでした。 科学者や解剖学者としても通用する独創的な「手稿」を残した レオナルドは「手稿」と呼ばれる膨大なメモを残しており、その数は13000枚にのぼります。 手稿はさまざまま考察や覚書き、スケッチ、機械や施設の設計図、さらに30年にわたってとりつかれたという、人体解剖についての詳細な記録も含まれます。 とくに、人間の筋肉や臓器、頭蓋骨などを精密に描写した人体解剖図や、鳥の観察から発明した空飛ぶ船(ヘリコプター)のスケッチなどが有名です。 レオナルドは生涯のうちに何度か、その手稿を体系的にまとめようと試みましたが、ついに完成することはできなかったということです。 レオナルドの芸術を物語る多くの「名言」が手稿に残っている レオナルドの手稿は、のちに『絵画論』『人生論』などにまとめられて出版されました。 そのため、レオナルドの名言が多く伝わっています。 『人生論』からいくつかを紹介します。 「幸福」が来たら、ためらわずに前髪をつかめ、うしろは禿げているから。 穴を掘るもののうえに、穴は崩れる。 必要であればあるほど拒まれるものがある。 それは忠告だ。 脅迫とは、ひとえに脅えた者の武器にすぎない。 「手稿」の鏡文字が暗号というのは都市伝説 レオナルドは「手稿」を残す際に、文字を「鏡文字」で書きました。 「鏡文字」とは、文字を左右に反転させて、進行方向も逆にして文字を綴ってゆく書き方のことです。 この鏡文字は、レオナルドが自分の考えを他人に読ませないために暗号のように使っていた、などと解釈されることがありましたが、現在はその説は否定されています。 「鏡文字」については、一種の学習障害であったとの説があります。 レオナルドは計算や、外国語を覚えることが苦手たったこと、あれこれと同時に手を広げてしまい、最後まで完成させることができなかったことなどがわかっており、これらは学習障害にみられる症状と一致します。 アインシュタインも暗記ができなかったことがわかっていますが、レオナルドの天才肌や一般的でない側面は、脳の機能にも要因があったのかもしれません。 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代表作品とは? それまでの形式を覆した初期の傑作『受胎告知』(1475年~1485年) 『受胎告知』ウフィツィ美術館(フィレンツェ) (出典:Wikimedia Commons User:Slick-o-bot) 『受胎告知』は、古くから西洋絵画で繰り返し描かれた、大天使ガブリエルが聖母マリアにイエスの受胎を告げる人気のテーマです。 レオナルド初期の傑作とされる『受胎告知』は、それまでの形式を覆し、風景が大きな割合を占め、書き込まれた花や人物が徹底したリアリズムで描かれています。 特にガブリエルが手にしている、純潔の象徴である百合の花は現実の花のように丁寧に描かれ、植物の一つ一つが装飾としてではなく、精密な植物画のように描かれています。 このような表現もそれまではなかったものでした。 死者の木である4本の杉の木は、イエスの運命を示しています。 最も有名なドローイング『ウィトルウィウス的人体図』(1487年頃) 『ウィトルウィウス的人体図』アカデミア美術館(ヴェネツィア) (出典:Adobe Stock) 最も有名なレオナルドのドローイングが『ウィトルウィウス的人体図』です。 手稿のメモには、「ウィトルウィウスが提唱した理論を表現した」と書かれており、古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスが書いた『建築論』の記述をもとに書かれました。 『建築論』の中の、人体の比率と宇宙の比率との調和が語られた部分である、人間が四肢を広げると円に接し、両足をつけて立つと正方形に接するとする記述を表しました。 レオナルドは、人体の尺度は万物の基準となると考え、人体の計測を綿密におこない、それは解剖学につながりました。 斬新な構図と人物表現が謎を生む『最後の晩餐』(1495年~1498年) 『最後の晩餐』サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ) (出典:Wikimedia Commons User:Hello world) 『最後の晩餐』は、人物の配置と動きなどの表現が、それまでの絵画に比べて斬新でした。 通常、裏切り者のユダは、それとわかるように一人だけ別に描かれることが多かったところを、レオナルドは他の弟子と同列に置きました。 さらに、裏切り者がいると告げたイエスの言葉から、12人の使徒に動揺が広がる様子が、それぞれの人物の体の動きや表情によって、臨場感を持って表現されています。 男性版モナ・リザ『サルバトール・ムンディ』(1500年頃) 『サルバトール・ムンディ』ルーヴル・アブダビ(アブダビ) (出典:Wikimedia Commons User:Coldcreation) 『サルバトール・ムンディ』(救世主の意)は、1500年頃に描かれたとみられ、18世紀末から行方不明になっていました。 2005年に美術商が買い取ったときには状態が悪く、修復したところレオナルドの真作と判断されました。 2017年にかけられたクリスティーズのオークションでは、500億円余りで落札され、美術品における過去最高の落札額となりました。 『サルバトール・ムンディ』は謎めいた表情から「男性版モナ・リザ」とも呼ばれています。 『モナ・リザ』やレオナルドの他の作品と同様に、手の表情が印象的です。 レオナルド最大の謎を秘める『モナ・リザ』(1503年~1506年頃から制作) 『モナ・リザ』(1503年~1506年頃から制作) ルーヴル美術館(パリ) (出典:Adobe Stock) レオナルド最大の謎とされ、また世界で最も有名な絵画が『モナ・リザ』です。 レオナルドの伝記や、当時に絵を見た人の記録などの研究から、モデルとされる候補者は10人ほどいますが、決着はみていません。 モデルの謎に加えて、この『モナ・リザ』の絵は、レオナルドが生涯において手放さず、没する直前まで手を入れ続けたことも憶測を呼んでいます。 スフマート技法で描かれた威厳のある謎めいた微笑みが、『モナ・リザ』の謎を深めています。 指し示す指の謎『洗礼者ヨハネ』(1513年~1516年頃) 『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館(パリ) (出典:Wikimedia Commons User:Dcoetzee) レオナルドが晩年に描いた『洗礼者ヨハネ』は、何かを訴えるような不思議な表情と、人差し指を上に向けた手が、謎をかもしだしています。 ヨハネのモデルは、弟子のサライだと言われています。 レオナルドがよく用いた、指で何かを指す仕草と、男性とも女性ともつかない人物像、そしてその謎めいた表情がよく表れた作品です。 まとめ レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画や建築に優れた功績を残し、あわせて斬新な構想による機械の発明などを、おびただしい数の手稿に残しました。 その才能の多彩さは「万能の天才」と評され、またレオナルドの姿形も大変に美しかったといわれます。 レオナルドの生涯や作品には謎めいたところが多く、さまざまな謎解きがされています。 ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、『最後の晩餐』に描かれたヨハネはマグダラのマリアであり、イエスと恋愛関係にあったとして、その暗号がこの絵に隠されているとする構想が示されました。 また、映画の『ダ・ヴィンチ・コード』では、ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールが、『ウィトルウィウス的人体図』を模した姿の遺体で発見されるという場面もありました。 近年、表に出てきた『サルバトール・ムンディ』も、新たな伝説を生んでゆきそうです。

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