たとえ 世界 欺く 答え だ として も。 アイのシナリオ CHiCO with HoneyWorks 歌詞情報

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たとえ 世界 欺く 答え だ として も

だから副題は「哲学探究2」とした。 とはいっても、そこで論じられたことを前提として、その「続き」がなされる、というわけではない。 すべてをもう一度、最初から始めるのである。 すでに何度も論じた問題を、また新たな視点から、あらたな組み合わせ方で、できるならより深く、論じるのである。 だから読者は「哲学探究1」を読まずにこの「哲学探究2」から読み始められても、なんの不都合もない。 私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。 この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わせて、それらに共通の構造を解明することにある。 のではあるが、さしあたりは、そのことを念頭に置きつつも、問題の広がりと思考の可能性をできるかぎり広範に提示することを目指す。 これらの問題は、間違いなく実在するのだが、人類史において(私の知るかぎり)まだ一度も表立って徹底的に論じられたことがない。 ともあれこういう問題が存在しており、そこからこういう思考の可能性が広がっているということを、可能なかぎり広範に、できるなら縦横無尽にと言えるほどに、書き残しておきたいと思う。 したがって、上手く説明したり、全体を体系的にまとめたり、といったことにはさほど意を用いず、ときには羅列的ともいえるような(したがってアフォリズムに近いような)書き方にもなるようにしたいと思っている。 読者の方々には、もちろん全体の整合的理解は前提になるとはいえ、個々の問題をさらに自ら深く思考していただけることを願いたい。 第1章 〈私〉の存在にまつわる諸問題 〈私〉の存在という問題の真の意味 私の存在の不思議さは物理主義的な世界像を前提にして提示されることが多い。 たとえば、「人間はみな同じように脳や神経(といった物的なもの)があって、それらが感覚とか意識(といった心的なもの)を作り出しているはずなのに、なぜ現実にはこの一つだけしか感じられないのか?」というように。 しかし、この問題の立て方は誤解を招きやすい。 すでに問題の意味を理解している人にとっては、これでもその問題を喚起させるに十分な力があるのだが、そうでない人には問いの意味を誤解させてしまうことがありうる。 この問いかけは、みな同じ条件であるはずなのに、現実にはそのうち一つしか感じられないことには物理的な理由がないではないか、と言っているのだが、その読み方を変えれば物理的な理由があると解することも可能だからである。 その場合の物理的な理由は、たとえば、神経が繋がっていないからだ、といったものである。 つまり、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いを「なぜ他人の意識は感じられないか」という意味に解したわけである。 元来の問いの趣旨は「なぜこの一つ 、、 しか感じられないのか」にあったのではなく、むしろ「なぜこの 、、 一つしか感じられないのか」に、つまり、一つだけであることにではなく、その 、、 一つの選択の根拠にあったのだが*。 * とはいえここにも、たとえ神経をつなげても(いや何をしても)他者の感覚は感じることはできない、という哲学的な問題が隠れてはいる。 神経をつなげて他者の感覚を感じてみても、感じた以上それは自分の感覚なのだから、それがその他者が感じている感覚と同じ感覚か違う感覚かはやはりわからないではないか、というわけである。 ここには生理的な壁ではなく論理的な壁があるのだ、などと言われたりもする。 しかし、その正体は、いままさにここで問われている問題そのものにある、というのが私の主張である。 しかし、そのことはこの議論が終わってさらに累進構造について議論を経なければ語ることができない。 だから、この問いはむしろ「なぜ一つは現実に感じられるのか」と肯定的な形で問われるべきなのである。 一つでしかないことではなく、一つはあることが問われるべきだからだ。 とはいえ、そう問われたとしても、同じように誤解されることはなおありうるだろう。 今度は、時間的な対比を導入することが駄目押しになりうる。 「百年前の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出していたのに、なぜそれらのうちの一つも現実には感じられなかったのか?」。 そしてまた、「百年後の人間たちも、みな同じように脳や神経があって、それらが感覚とか意識を作り出しているであろうが、それらのうちの一つも現実には感じられないとすれば、それはなぜか?」。 これらの問いを付け加えられても、なお同じ誤解の線に沿って答えようとするなら、それは「百年前だって、百年後だって、やはり一つしか感じられなかったし、感じられないだろう。 現状もそれと同じことだ」となるはずである。 これは、(「この」を取った)「なぜ現実には一つしか感じられないのか」という問いに対する答えとしては有効だろうが、(「この」を付けた)「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対しては無効だろうし、おそらくはまた肯定的に表現された「なぜ一つは現実に感じられるのか」に対しても無効であろう。 このことから二つのことがわかる。 第一はもちろん、「なぜ現実にはこの一つしか感じられないのか」という問いに対する物理的な理由はない、ということである。 もし物理主義者が、問いの意味を理解したうえでなお、それがあると主張したなら、とんでもない主張をしたことになる。 地球人類史のなかで(あるいは宇宙生物史のなかで)ただ一人だけ他の人間(あるいは生き物)とは物理的に違う組成で出来た個体があって、だからそれだけが現実に音が聞こえ痛みを感じるこの生き物なのだ、ということになるからである*。 * この唯物論的独我論は、たしかにとんでもない主張であるとはいえようが、じつは本当にそうではないのか、と疑うことは十分に可能ではあるのだ。 そして、それが可能ではあることこそが、実はこの問題の哲学的な肝 きも でもあるだろう。 別の観点から言うと、もし、たんに哲学的議論として独我論という考え方に興味を持っているのではなく、ほんとうに「独我論的心配」をしている(なぜ私だけこんなに他の人と違うのだろう、何か変なのではないか、というような仕方で)人がいたら、その人はむしろこの物理主義的な答えを受け入れるのが自然なのではなかろうか。 その意味では、唯物論的独我論は決して嗤うべき思想ではないだろう。 したがって第二は、物理主義的前提から出発する(そして、それに反することを言う)ことは、この問題を提示するために必要ではなく、むしろ問題の本質を見失わせる、ということである。 つまり、この問題は物理主義のような考え方と対立するようなものではないのだ。 脳や神経などはまったく持ち出さずに、ただ単に「 過去や未来を含めて たくさんの意識のある生き物が存在するのに、なぜ現実にはこの一つだけしか意識できないのか?(なぜ一つだけは現実に意識できるやつが存在しているのか?)」で十分であり、その際、その「意識ある生き物」に意識があるのは脳や神経のせい 、、 であろうとなかろうと、そんなことはこの問題には関与していない。 むしろ、観念論(唯心論)的前提から出発して、それに反することを言うほうが、この問題のポイントをクリアに提示できるであろう。 すなわち、「意識」等々の語を唯心論的に捉えたうえで、「 過去や未来を含めて たくさんの意識(心や精神、あるいは主体や自我)が存在しているのに、なぜ……?」と問うわけである。 しかし、おそらくは歴史的事実として、この問題は反唯物論的な(すなわち唯心論的な)問題提起であるかのように誤解されてきた。 たとえばデカルトは、かの有名な全般的懐疑の果てに、疑いえぬ真理として「我あり」を発見したわけだが、ただちにその「我」を「精神」と同一視し、物心二元論への道を開くことになった。 これは自己誤解でなければならない。 なぜなら、懐疑の果てに彼が発見した哲学的に最も意味深いことは、「デカルト(という人物)の存在は疑いうるが、私の存在は疑いえない」という事実から導かれる、「私はデカルトではない」であったからだ。 そのデカルト(という人物)なるものを物質の塊であると考える必要などはまったくない。 たとえそれがもっぱら心的なもの(たとえば感覚や感情や記憶や願望や思考……の塊のようなもの)であったとしても、私はそれとは独立だ、ということこそがデカルトの発見であったのでなければならないからだ。 本来あるべきデカルトとともに、私がここで提起したい(これまでも提起し続けてきた)問題は、この種の「物と心」の対立とは別の枠組を必要とする問題であり、また、後に詳述する機会もあると思うが、「公共性と私秘性」といった対立とも別の枠組を必要とする問題なのである。 あえて伝統的な枠組で分類するなら、それは「実存と本質」の対立に属する問題である。 (デカルトが私はそれではないと言った)デカルトという人物についていえば、たしかにそれは固有の身体を持つとはいえ、物的というよりはむしろ心的な存在者であるだろう。 それは、おそらくは何よりもまず、記憶を中心とする心理的な連続体のことであろうから。 デカルトの心理的連続体のことはあまり知らないので、よく知っている永井均という心理的連続体を例に取れば、それには人の知らないきわめて独特のところがある。 まあ、永井均と同じ経歴(したがって記憶)を持った人はこの世にほかにはいないのだから、まったく独特であるのは当然のことだともいえる。 とはいえしかし、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えているわけではない。 私は自分を他から識別して私であるとして捉えるとき、自分の持ついかなる(固有の)属性も使っていない。 私は私をその特徴的な(他に例のない)心理的連続性によって他から識別してはいないのだ。 それなら、たくさんの人間(生き物)たちのうちから、何を根拠にして自分を識別しているのか。 と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって、と答えるほかはない*。 何が与えられていようと、与えられている内容は関係ないのだ**。 何が与えられていようと、ただそれだけが与えられているということだけで十分であり、それだけが不可欠なのである。 だから私も、デカルトと同様、「私とは永井均のことではない」といわざるをえないわけである。 * 「哲学探究1」では、この基準を第一基準と呼んでいる。 ** 「何が見えていようと、見ているのはいつも私だ」というウィトゲンシュタインの創作した独我論言明は、通常まさに独我論者の自己主張であるかのように捉えられているが、そうではなく、同格の人間が複数存在することを問題なく認めた場合にも、彼らはみなこの仕方で自分を捉えざるをえない、という意味に理解されるべきである。 それ以外の自己把握の方法はないのだ。 その際、対比されている言明は、「かくかくが見えているから、見ているのは私だ」である。 このような捉え方は決してできない、という点こそここでのポイントなのである。 かりに私がいろいろな点できわめて特徴的な感じ方をする人間であったとしよう。 物心ついて以来ずっと、たとえば音の点では、あたかも耳鳴りのように繰り返しあるメロディが低く鳴り続けている、というように。 たとえそうであったとしても、私は、その特徴的なメロディが聞こえているがゆえにこれは私だ、と私を(他の人々から区別して)把握することはできない。 だから私が、そのメロディを始めとするあらゆる固有の感覚をすべて感じなくなり、まったくもって平凡な感覚しか感じなくなったとしても、その平凡な感覚をもし現に感じているならば、それは私なのである。 何が感じられていようと、感じているのは私、だからである*。 * 固有の属性を持った一人の私がその同じ属性を持ったまま二つに分裂したとき、一方が私であるなら他方は(私と同じ属性を持っていても)他人である、という思考実験は、「これが私である」という端的な事実の成立がその人の持つ属性によって決まるのではない、ということを示すための面白い話にすぎない。 面白く表現すると、その面白さのほうに目が移ってしまって、分裂するということに何か特別の意味があるのかと思ってしまい、それが可能かどうかなどと論じ始める人がたまにいるが、べつに分裂ということに特別の意味があるわけではない。 ここで、次のような疑問を持つ人がいるかもしれない(いて欲しい)。 そうだとすれば、すべての人が、自己把握をする際にはこの仕方でしていることになるだろう。 それなら、そのすべての人たちのうちから、私は私をどうやって識別できているのか。 もはや「この仕方」を持ち出しても無駄だろう。 すべての人がそうしているのだから。 ここではもはや、私だけがもつ独自の特徴を持ち出しても無駄であるだけでなく、ともあれ現実に感じているといったことを持ち出しても、やはり無駄であるはずだ。 すべての人がそうしているのだから。 このような疑問である。 だから、この疑問に対して答えようとすると、それでもこの私だけが現実に現実に 、、、、、、 感じている、といったことを言わなければならなくなる。 しかし、そのこと自体もすべての人がそう言うだろうから、それらとさらに差異化するためには、もう一度「現実に」を付与するほかはなくなって、言語表現の可能性は破綻する。 私がこの連載で問題にしたいのは、「私」の問題だけでなくその他もろもろの事柄に関しても反復して顕れるこの構造の真の意味を考えることである。 いや、しかし、このような議論の進め方に対して、むしろ逆方向の疑問を持つ人がいるかもしれない(こちらもまた、いて欲しい)。 それは、そもそもすべての人がそうしているとなぜわかるのか、という方向の疑問である。 私自身はたしかに、どういう心的内容を持っているかではなく、ともあれ現にそれを持っているということによって、だからそいつが私であると捉えている。 それは確かだが、他人がそうしているかどうかなんて、どうしてわかるのか。 この疑問に対しては、さしあたってこう反問しておきたい。 だがしかし、たとえ他人であっても、その人が自分を捉えるとき、先ほど述べたような仕方以外の仕方でそうすることが可能であろうか。 たとえば、かくかくしかじかの記憶を持っているからこいつは自分だ、とか、繰り返しあるメロディが低く鳴り続けているからこいつは自分だ、とか。 そんなことは不可能だろう。 なぜなら、そうしたことを捉える主体の側が自分なのだから。 その人だって、何であれ(すなわちその内容に関係なく)ただ現に与えられているという理由によって、それが自分の体験(あるいは属性)であるとみなすしかないだろう。 どうして(他の体験ではなく)それ 、、 を感じているのが自分なのか、 他の属性ではなく それ 、、 を持つのが自分なのか、その根拠はさっぱりわからずに、いきなり。 さてしかし、先ほど私は、永井均という心理的連続体には人の知らないきわめて独特のところがある、と言った。 それにもかかわらず、私は私をその独特のところ(の集まり)を根拠にして他から識別し、これが私であると捉えることはできないことが明らかになった。 では何を根拠にして自分を識別しているのか、と問われるなら、ただそれだけが現に与えられているという事実によって(細かく言えば、「ただそれだけ」の「それ」によってではなく「ただ…だけ」によって、そして「現に与えられている」の「現に」によって)と答えるほかはないのであった。 だから私もデカルトと同様「私とは永井均のことではない」と言えることになったのであった。 むしろしかし、私がデカルトとまったく同様ではおかしくないか。 何といってもデカルトは他人で、私ではない。 この端的な 、、、 事実こそが問題で、それをどう考えたらよいのかが問題であったはずなのに、いつの間にか問題がずれてしまっていないか。 と、先ほどの「逆方向の疑問を持つ人」がなおも食い下がってきても不思議ではない。 いや、食い下がってくるべきだろう。 といっても、この食い下がる人は、ここではもはや私自身でなければならないが。 ところで、よく知られているように、デカルトは「欺く神」と闘った。 闘って、「私が「私は存在する」と思うかぎり、私は存在する。 神の力をもってしても、ここでは私を欺くことはできない」という勝ち名乗りをあげた。 しかし、このとき勝ったのは誰(というより正確にいえば何)だろうか。 果たして他者であるわれわれはこのとき勝ったのが何であるかを知りうる立場にいるだろうか。 こう考えることは確かにできる。 デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかだ。 それは、デカルトが自分を捉える際に用いる「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を、欺く神の側は決して持ちえないからだ。 だから、欺く神の側は、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解できない。 欺く神の側からすれば、そのときデカルトが信じている内容はすべて偽であり、欺きは完璧に成功しているからだ。 しかし、もし偽なる信念が現にありありと与えられているなら、やはり私は存在する。 私は存在するというその信念もまた欺く神が与えた偽なる信念であっても、やはり私は存在する。 そのときデカルトが与える「私」の意味を、欺く神の側は決して知ることができない。 いやいや、そうだろうか。 欺く神は悪神であるとはいえ神の能力を持つのだから、いかなる理由でデカルトが勝ち名乗りをあげているのか、理解ができないはずはない。 彼は、全知なのだから、いまここで論じられているような自己知に関する一般理論もまた完璧に知っているはずではないか。 デカルトがいかなる理由で勝ち名乗りをあげているのかももちろん知っていて、知っている以上その裏をかくこともできるはずではないか。 かりにもしそうだとすれば、ここで最後に残るのはやはり「逆方向の疑問を持つ人」の問題意識である。 この問題を、たとえそれが歴史上デカルトに端を発するとはいえ、デカルトという過去の他人の場合で考えるのは的はずれであったことになる。 この意味では、欺く神と闘って勝つことができるのは、文字通り私だけである(デカルトの戦いはまさにそのことを示唆していることになる)。 私がデカルトと同じ全般的懐疑を敢行し、欺く神の欺きと対決したとき、私だけが知りうる仕方で、私は欺く神に勝てることになる。 なぜ私だけが知りうる仕方なのか。 なぜ神はそれを知りえないのか。

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たとえ、世界を滅ぼしても ~第4次聖杯戦争物語~

たとえ 世界 欺く 答え だ として も

聖書は『新共同訳』を用いています。 黙祷 招詞 ミカ書4:6-7 より 朗読 その日が来れば、と主は言われる。 わたしは足の萎えた者を集め、追いやられたものを呼び寄せる。 わたしは彼らを災いに遭わせた。 しかし、わたしは足の萎えた者を 残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。 シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。 賛美歌 202よろこびとさかえに満つ(1,2) 歌唱/朗読 平和の町 エルサレムよ。 苦しみと 悩みは消えて、 よろこびと 慰め満ち、主のみ名を ほめ賛えよ。 (2節のみ紹介) 信仰告白 使徒信条 告白 我は 天地の造り主、 全能の父なる 神を信ず。 我は その独( ひと )り子、 我らの主、 イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりてやどり 処女マリヤより生れ、 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、 死にて葬られ、陰府にくだり、 三日目に死人のうちよりよみがえり、 天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、 かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。 我は聖霊を信ず、 聖なる公同の教会 聖徒の交わり、罪の赦( ゆる )し、 身体 からだ のよみがえり、 永遠 とこしえ の生命 いのち を信ず。 アーメン。 祈祷 黙祷 わたしたちを礼拝へと招いて下さり、ありがとうございます。 恵みの雨のうちに、いのちあるものすべてが輝かされているように わたしたちもまた、あなたの霊によって生かされていることを覚え、 感謝と告白と祈りをもって、礼拝をささげます。 わたしたちは、今、あなたの前に重荷を下ろしています。 ここは、青草の原ここはいのちの水のほとり。 あなたが与えてくださった愛する隣人と共に、礼拝に与り、 あなたが与えてくださる荷を負い直して、出発させてください。 感染症の流行の中で、苦しんでいる世界中の人々が、 あなたの支えを感じ取って、勇気づけられますように。 「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」との言葉に、 明日を忘れて休むことができますように。 このような中で浮き彫りにされる、人種差別を始め様々な不正義が あなたの御心を求める人々の、諦めることのない業によって、 あなたの平和にふさわしく、変えられていきますように。 わたしたちが行動と祈りとをもって、そこに加われますように。 手術を受けた者、療養中の者、施設にある者、また、支えている者を あなたが顧みてください。 不自由な中で学びを進めている者、それを 助けている者に学びあう喜びを備えてください。 困難な中、懸命に 生業を維持している者を励ましてください。 今日、一日、様々な形で礼拝に与るわたしたちを あなたの御手がつないで、一つの礼拝の民としてください。 また、世界の人々とつながらせ、ともに生きる者とさせてください。 イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。 聖書 ヘブライ人への手紙 12章 22-29より 新p 418 朗読 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、 無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、 すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 新し契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、 感謝しよう。 感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。 説教 「天に一人を増しぬ」 上島一高牧師 黙読 「信仰とは、望んでいながらまだ実現していないことを垣間見ることです。 信仰には、未だ見えないことの一端が、既に見える形で表れているのです。 それゆえ、未だ完全には見えていないことを信仰によって証しした信仰者たちは、人々に希望を与えたと賞賛されます」。 イエスはこの「信仰の導き手であり、完成者」です。 現実には困難なことが横たわり、卯の花腐しは降り続けていますが、イエスは「自分の前にある喜びのゆえに、恥をも厭わず、十字架を忍び、神の右に上げられ」ます。 このような方こそは、信仰者、希望している者の模範です。 ところで、「希望している者」とは、まさに人工言語(民際語>国際語)エスペラント語の由来であり、そのような人のことをエスペランティストと呼びます。 彼の名前はラザロ。 イエスが甦らせたあのラザロと同じす。 ザメンホフは 1859年、現在のリトアニアに生まれます。 プロシア領、一時ナポレオンのフランスに占領され、当時ロシア帝国領ポーランドでした。 イスラムの影響も残る一方、生まれた町の 7割はイディッシュ語です。 ザメンホフ家がここに住んだのも流浪の果て。 様々な言葉が入り乱れ、互いに棲み分け、時に多言語を操って付き合っている環境で生き抜くため、多言語を習得します。 とりわけ、支配言語のロシア語を。 ドイツ語商人とリトアニア語のお百姓が揉めていると、憲兵がロシア語を使えと命じます。 自分がロシア語を使えることが喜びではなくなります。 また、ユダヤ人の高齢者や女性が通ると、他の人種のわんぱくな子どもたちが、大人の差別意識を反映して、イディッシュ語のまねをしてからかいます。 日本でも、かつては、朝鮮語、中国語の真似をしていましたね。 少年ラザロは思います。 「聞いて来た教えに反して、人類はいない。 いるのはただロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人などの人種ばかりではないか」。 しかし父はわが子を心配します。 ユダヤ人はロシア語を使いこなし、自分のように教授か、医師や弁護士になるべきだと考えたからです。 結局、モスクワ大学医学部に入学しますが、時代が大きく揺れ動く中、ユダヤ人たちの自由を求めつつも、排外主義も顔を出すシオニスト運動には組みせず、イエスの年長の同時代人で、開かれたユダヤ教の指導者ヒレルの隣人愛に学ぶ、卒業の年にはエス語の土台を固めます。 その父親は、貧しい中から小さな石鹸工場を起こして育て、自らも工員と共に働いた人、娘婿のエスペラント語への志を財政的に支え、 1887年これを世に出させます。 文豪トルストイは評します。 「私は人間が互いに理解し合う上に、ただ外面的な障害から、憎み合う場面を度々見て来た。 エスペラントは、人生の唯一の主要目的たる、神の国を築くことを助けるキリスト者的仕事である」。 ところが、彼を警戒する帝国から妨害されることに。 そんな世紀の変わり目、ラザロはワルシャワ一の貧民街、日本語で「荒れた町」に開業します。 患者は目が見えなくなるまで医者に行けない状態。 安い治療費で診察を始めるものの厳しさは増して行く。 希望を失いかける中、患者が彼のことを理解し、詰めかけるようになります。 一方、ロシア帝国に妨害された『エスペランティスト』誌も、そんな中で各地に根を下ろし、芽を出していました。 ある女性教員は、エスペラント語を弘めるために、食事を節約して支え、また、ある死期の迫った病人は、ラザロに励ましの手紙を届けてくれました。 その後のエスペラント運動のことを考えると、わたしは、「荒れた町」の患者たち、そして、エスペラントを支えた名も無い人々の祈りなしにはあり得なかった。 彼らなしには、ザメンホフは「エスペランティスト(希望している者)」であり得なかったと思うのです。 イエスに従って鍛錬された者は、「平安な義の実」を結び、「すべての人と共に平和と聖なる生活を追い求め」る者は、主を見る、と。 イエスや信仰者とラザロはこれに重なります。 彼らは、「望んでいてまだ実現していないことを」垣間見るだけでなく、そこに「近づいた」正確には「到達した」のです。 到達して見た光景は、天の都とそこに挙げられ大きな食卓を囲む人々の集会、審判者である神、血を以て新しい契約の仲介者となったイエスです。 その景色は、「揺り動かされることのない御国」。 それゆえ、信仰者、すなわち、「希望している者」(わたしたちの別名)は、ヘブライ書が言う通り、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に歓ばれるように仕えてい」く者なのです。 確かな神の支配 火 の下で。 元々ゲットーに閉じ込められた孤児たちを、見捨ててばらばらにせず最後まで支えた、医師コルチャック先生の足跡を訪ねるためでした。 コルチャックは、自分が認めたくない生き方をしているユダヤ人同胞に頭を下げて、食料を集めました。 さらに、自分が生き延びられる道を、自ら閉ざしました。 そして、こどもたちと共に囲む大きな食卓を守るのです。 彼らは、皆トレブリンカ絶滅収容所に送られます。 しかし、わたしたちは見ます。 地上の食卓に替えて、天の大きな食卓の席に、一人一人が加えられ、ラザロが彼らを迎えるのを。 これがヘブライ書の描く風景です。 黙想 賛美歌 390主は教会の基となり 1,2,4 歌唱/朗読 世にある民も 去りし民も 共にまじわり、神をあおぎ、 永遠の勝利を 待ち望みて イェスの来ますを せつに祈る。 (4節のみ紹介) 奉献 後日、教会で献げましょう) 主の祈り 朗読 天にまします我らの父よ、 願わくは御名をあがめさせたまえ。 御国をきたらせたまえ。 みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧 かて を 今日もあたえたまえ。 我らに罪を犯すものを 我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。 我らを試( こころ )みにあわせず 悪より救い出 いだ したまえ。 国と力と栄えとはかぎりなく 汝( なんじ )のものなればなり。 アーメン。 賛美歌 88 歌唱/朗読 心に愛を 豊かに満たし、日ごとのわざに つかわしたまえ 祈祷 朗読 キリストの平和の使者として行かせてください。 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが わたしたち一同と共にありますように。 アーメン。

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【歌詞に胸キュン】HoneyWorks(通称:ハニワ)人気曲ランキング

たとえ 世界 欺く 答え だ として も

Contents• 「HoneyWorks」(ハニーワークス)とは 甘酸っぱい少女漫画の世界観を軸に恋愛曲を手掛けていることが、 HoneyWorks(以下、ハニワ)の最大の特徴といえます。 まずはハニワについてお話したうえで、その具体的な魅力を紐解いていきましょう! 今話題のクリエイターユニット ハニワは、 作詞作曲・ 編曲担当のGomとshito、 イラスト・ ムービー担当のヤマコの3名からなるクリエイターユニットです。 そのほか、楽器やイラストを担当するサポートメンバーもいます。 ニコニコ動画やYouTubeなどの動画投稿サイトで活動していて、 関連動画総再生回数はなんと 4億回超え。 オリジナルのキャラクターとストーリーをベースにした楽曲を制作しています。 そんな彼らの楽曲シリーズプロジェクト「告白実行委員会~恋愛シリーズ~」は、2011年に公開された動画「初恋の絵本/HoneyWorks feat. そしてついに 2016年には映画化までされて、 動員数25万人・ 興行収入3億円を突破するという偉業を成し遂げたのです。 映画版の主題歌『』『 』 や挿入歌『』は人気を博しました。 また公式ホームページでは、女子ウケ抜群のオリジナル商品が発売されています。 JKに大人気の理由 ハニワの複数の楽曲からなる「告白実行委員会~恋愛シリーズ~」。 曲中に出てくる登場人物が同じ高校を舞台に、恋愛物語を繰り広げていきます。 複雑な恋愛模様を通して主人公たちが成長していく様子は、もどかしくて切なくてつい聴き入ってしまいます。 好きな人へのあふれる想いや友達へのリアルな感情を見事に描いており、 女子高生の共感ポイントが満載なのです。 恋する女の子を描いた歌詞に共感 人気の理由は、 なんといっても 胸を刺すような等身大の歌詞。 好きな人に自分の気持ちを伝えるために悪戦苦闘する様子が1曲1曲の中にぎっしり詰まっています。 また、女子目線だけではなく男子目線で作られた楽曲もあるので、1つの物語がグッと濃いものになるのです。 PVの絵が可愛くて色鮮やか イラスト・ムービー担当の ヤマコによる光の表現が秀逸で、 登場人物の気持ちに合わせて 色鮮やかに彩られたPVも魅力的。 絵が可愛くておしゃれなので、観ているだけでも女子力が上がりそうです。 恥じらう顔や泣き顔など人物の表情が繊細に描かれていることも見どころで、最後まで飽きずに観ることができます。 特に 「ロクベル」という猫が主人公のMVは、HoneyWorksの楽曲と相まって涙腺崩壊すること間違いなしの名作です。 「ボカロ」「声優」「歌い手」による歌 ハニワの活動は、2010年にニコニコ動画でボーカロイドオリジナル曲を投稿したことがはじまりです。 これまでに初音ミクや鏡音リン、鏡音レン、GUMIなどが使用されています。 ボカロ曲はJKにも親しまれており、ハニワの楽曲のよさから人気が加速していきました。 また歌い手のCHiCOがハニワとコラボし、「CHiCO with HoneyWorks」として活動してから、2018年の武道館ワンマンライブを約1万人動員で大成功させました。 CHiCO with HoneyWorks名義のコラボは「CHiCO with HoneyWorks meets中川翔子」「CHiCO with HoneyWorks meetsスカイピース」など活動も幅広く行っています。 まさに時流に乗るクリエイターユニットです。 甘酸っぱい歌詞にキュン!恋愛ソング人気ランキング ハニワの楽曲はどれも胸がいっぱいになるくらい切なくて、 片思い中の心に刺さります。 なかでもとくに歌詞が甘酸っぱくてキュンキュンする恋愛ソングをご紹介します。 ハニワの楽曲は物語になっているので、1曲聴いたら次々に聴きたくなって一気に全部聴いてしまうかもしれません。 男子目線の曲もあるので、男子の胸の内を覗けるところもポイントですよ。 【7位】告白ライバル宣言 恋が満ちたのは まばたきくらい一瞬の事で こんな出来事はまるで誰かの夢物語だね 未完成ナイトもうちょっと待って 君と君の好きな人に贈る精一杯 「せーのっ!」僕の宣戦布告 『告白ライバル宣言』は 「告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜」の一曲。 榎本夏樹に片思いする綾瀬恋雪の切ない恋心を描いた男の子目線の楽曲です。 歌詞にも書かれているとおり、「0%が分かった上でも」好きな気持ちを募らせる彼は、夏樹の恋愛成就に「おめでとう好きだった人」とこぼします。 なかでも「恋に落ちたのはあなたのせいです」は、片思い中なら共感必至のフレーズ! とても胸が締め付けられる展開の歌で、聴くと恋雪を応援したくなります。 ほろ苦い気持ちが詰まった楽曲ですが、 ポップで明るい曲調が主人公の優しさや明るさを伝えてくれる1曲です。 他にも 「告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜」では『』『』など名曲揃いなので、ストーリーを楽しむためにシリーズ全ての楽曲を聴くことをおすすめします。 【6位】可愛くなりたい 好きで好きでたまんなくて 嘘をついた 香付きのリップも 覚えたてメイクだって… 朝昼晩一日中君の事 考えています 想像だってしちゃいます 成海聖奈の声優を担当している雨宮天さんがキュートに歌い上げる1曲、『可愛くなりたい』。 転校生の濱中翠に片思い中の聖奈。 少しでも可愛くみられたくてお洒落をしたり、メイクの研究をしたりと、彼に気づいてもらえるように精一杯頑張る様子が描かれています。 「カワイ子ぶってるったってカワイく見られたいんだし」という歌詞も、多くの女子が共感するのではないでしょうか。 「何とも思ってないよ?」と嘘をつく気持ちもわかりますよね。 ツンデレっぷりもまた可愛らしいです。 恋する楽しさがギュッと詰まっていて、 聖奈につられて恋をしたくなる女子力アップにもってこいの楽曲です。 【5位】告白予行練習 「嘘つきでごめんね ずっと前から好きでした」 声震えていても 大好きを伝えたくて 「これ以上好きにさせていでよ」 あなたは笑顔で「こちらこそ」って 2015年にハニワとして初となるボカロ曲のミリオンを達成した楽曲、『告白予行練習』。 この曲と『初恋の絵本』『ヤキモチの答え』からはじまった小説シリーズもあり、 シリーズ関連累計は200万部を突破しています。 榎本夏樹が片思い中の瀬戸口優に、告白の予行練習という口実で想いを伝えるドキドキの内容です。 PVでは告白シーンの夏樹の表情の描き方が見事で、ハニワの中で『告白予行練習』が一番好きという意見が多いのも納得の1曲です。 片思いをしている女子は、 この曲で告白の勇気をもらって恋愛成就しちゃいましょう。 実はこの曲にはアナザーストーリーがあるのですが、瀬戸口優の声優として神谷浩史さんによって歌い上げられています。 最高に幸せな気持ちになれること間違いなしの歌詞となっているので、あわせて聴いてみてくださいね! 【4位】東京サマーセッションfeat. CHiCO 待ってる左手にほんの少し触れてみる 繋ぎたい繋ぎたいだけどポケットに隠れた ほんとは気づいてるほんの少しで届く距離 繋ぎたい繋ぎたい本音背中に隠すの 『 東京サマーセッションfeat. CHiCO』は、サビ以外の歌詞が男女の会話になっていて、歌い手のsanaとCHiCOがそれぞれ担当する役の台詞を歌うデュエットソングです。 この曲には、『告白予行練習』の瀬戸口優&榎本夏樹、『初恋の絵本』の芹沢春輝&合田美桜、『ヤキモチの答え』の望月蒼太&早坂あかりが登場します。 ひと夏の思い出が描かれていて、 花火に照らされた男女の表情がなんとも可愛らしいのでぜひチェックしてみてください。 友達以上恋人未満の関係にもどかしさを感じつつも、聴くだけでこちらが照れてしまうような歌詞。 風情ある夏祭りの中で伝わってくる温度感と2人の歌声にキュンとする、 夏におすすめの楽曲です。 【3位】ヤキモチの答え ごめん 応援できないよ うまくいくな!! 最低な願い事だよ 性格悪い悪魔の事を 応援しちゃうよ HoneyWorksの超人気曲『ヤキモチの答え』は、早坂あかりに恋する望月蒼太のヤキモチソングです。 そして声優は梶裕貴さん。 あかりを想う彼の健気な歌詞が切なく、「もしね、付き合えたら毎日笑わせてみせるよ」なんて言われたら、他に好きな人がいても揺らいでしまうかもしれません。 好きな人に嫉妬してしまう、 辛い気持ちを乗り越えたい人に聴いてほしい男の子目線の1曲です。 『ヤキモチの答え』は、あかり目線で歌われた『ヤキモチの答え-another story-』もあるので、こちらと合わせて聴いてみるとさらにキュンキュンできると同時に希望ももらえちゃいますよ! 【2位】今好きになる。 認めたら認めちゃったら 隠すことも諦めそうだ 今好きになる 『今好きになる。 』は、綾瀬恋雪に片思いする瀬戸口雛が、想いを伝えるために勇気を出す様子を描いた楽曲です。 この曲は映画「好きになるその瞬間を。 〜告白実行委員会〜」の挿入歌にも使われています。 恋する乙女の可愛さと上手くいかないもどかしさが、キュートに描かれています。 叶わない恋だとわかっていても好きな気持ちに嘘はつけないという、 片思いする心をリアルに表現したこの曲は、 何度聴いても泣ける感動ソングです。 「伝えちゃったら多分距離ができちゃうかもね」と思いながらも、思い切って告白する雛に勇気をもらえるでしょう。 雛の可愛さはもちろん、恋雪の変身っぷりにも注目して聴いてみてください。 トライアングルストーリーとして、雛に思いを寄せる榎本虎太郎の幼馴染目線の切ない楽曲も必聴です。 YouTubeでは1200万再生を突破しているハニワの代表曲で、濱中翠視点で成海聖奈に片思いする様子が描かれています。 「おはよう」のたった一言でも、 好きな人には恥ずかしくてなかなか言えなかったりしますよね。 実は聖奈も翠を好きだったりするので、それを踏まえて聴くと翠をさらに愛おしく感じます。 お洒落で美男美女の2人なので、並んだ様子がとても可愛くてPVをみているだけで幸せな気持ちになります。 金曜日にこの曲を聴けば、翠に勇気をもらって好きな人に声をかけられるかもしれません。 この曲にもアナザーストーリーがあり、YouTube再生数は1600万回超と本編よりも上回っています。 両思い気分を味わうのにもってこいの名曲です! PVに注目!CHiCO with HoneyWorksおすすめアニソンランキング CHiCO with HoneyWorksは、ソニーミュージック主催のアニソンオーディション「ウタカツ!」で第1回グランプリに輝いたCHiCOと、ハニワの 共作コラボユニット。 YouTubeやニコニコ動画などの動画配信サイトでは、これまでにリリースした8枚のシングル・アルバムのPVの総再生回数が2億回を突破し、 YouTubeの 「CHiCO with HoneyWorksチャンネル」には20万人を超える登録者がいるなど、今や大人気のユニットです。 次はそんな彼らの、超人気アニメとタイアップしたおすすめの3曲をご紹介します。 どれもストーリー展開が面白いので、ぜひPVに注目して聴いてみてください。 【3位】世界は恋に落ちている 世界は恋に落ちている 光の矢胸を射す 君をわかりたいんだよ 「ねえ、教えて」 CHiCO with HoneyWorksのデビュー曲『世界は恋に落ちている』。 テレビアニメ「アオハライド」の オープニング主題歌として知名度を上げたこの曲は、 楽曲自体の難易度が低くカラオケでも親しまれています。 明るくキャッチーなメロディがCHiCOの声に合っていて、 前向きな気持ちにさせてくれる1曲です。 爽やかな楽曲とはうらはらに、PVは男女の三角関係を描いたものとなっており、結末に謎が残る終わり方になっています。 あえて核心部分に触れないように作成されているので、色々なストーリーを想像してみましょう。 【2位】プライド革命 たとえ世界欺く解答だとしても 「信じて」差し出す掌 決して逃げない怖くはないから 目を開け弱さをかき消すんだ CHiCO with HoneyWorksのセカンドシングル曲である『アイのシナリオ』は、愛する人を守り抜く覚悟に満ちたカッコいい楽曲です。 テレビアニメ「まじっく快斗1412」のオープニングテーマ曲として広く親しまれており、まさにCHiCO with HoneyWorksの代表曲といえます。 「まじっく快斗1412」は、「名探偵コナン」に登場する怪盗キッドに焦点を当てたストーリーです。 歌詞やPVの内容も「まじっく快斗1412」にリンクされるように作り込まれていて、運命や再会をテーマにストーリーが展開されていきます。 時を越えた2人の愛の絆が歌われた、 ファンタジー要素たっぷりの魅力的な楽曲となっています。 間奏のピアノソロも鳥肌モノ。 「まじっく快斗1412」のファンはもちろん、知らない人も十分楽しめる内容になっているので、ぜひチェックしてみましょう。 豪華声優陣によるHoneyWorksキャラソンCDに注目! 今回ご紹介した曲は、キャラクターソング集CDとしても発売されています。 好きな声優が歌うキャラソンは間違いなくテンションを上げてくれます。 『僕じゃダメですか?~「告白実行委員会」キャラクターソング集~』では、 神谷浩史・豊崎愛生・戸松遥・鈴村健一・麻倉もも・阿澄佳奈・花江夏樹などの人気声優陣が曲の キャラクターにピッタリの声で歌ってくれていて、どの収録曲にも外れがなくとても 聴き応えがあります。 なかでも『』『』『』がおすすめ! プロの声で歌われた曲を聴いて、 毎日聴きたくなるくらい感動して、 さらにハニワを好きになりましょう! HoneyWorks(ハニワ)の楽曲を聴いて恋愛モチベーションUP! 胸キュン必至のハニワの世界を楽しんでいただけたでしょうか。 今回ご紹介した曲にはアンサーソングなど異なった視点から楽める作品もあります。 そしてハニワにはほかにも『 』『』など、たくさんの魅力的な楽曲があるので、まずは気になったタイトルを聴いて楽しんでみましょう。 ハニワのさまざまな最新情報はHoneyWorksオフィシャルブログで随時更新されるので注目してみてはいかがでしょうか。 ハニワの楽曲は聴けば聴くほど恋の気分が高まる作品ばかりなので、片思いをしている人は勇気をもらって一歩踏み出せるかもしれません。 まだそんな勇気が出せないという人も、ハニワの曲で恋をしている楽しい気持ちを高めて、素敵な恋愛をしてください!.

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