天気の子 宮台真司。 「陽菜も帆高も、加藤浩次も、トニー・スタークにならなくていいんだよ。」天気の子 ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)

『天気の子』とセカイ系、そしてビジネス中二病|宇野常寛|note

天気の子 宮台真司

「少年革命家」を自称し、YouTube上で動画を投稿している不登校ユーチューバーのゆたぼん君(10)。 21日に公開した動画では、著名な社会学者である氏の講演会で「学校に行かないとダメですか?」と質問する様子が写し出された。 質問コーナーで「俺は今学校に行ってないんですけど」と切り出すと、日本中の大人からネット上でバッシングを受けていると明かしたうえで「学校に絶対に行かないとダメだと思いますか?」と尋ねる。 そして、話題は「日本の教育」という大きな事柄へ。 宮台氏によると、日本はひとりの担任が生徒を抱え込み、多くの科目を教える仕組みだが、海外には複数の教師が教室に来て、どの先生から習うかを選択できるような国もたくさんあるそう。 子供に選択権のない現在の日本の教育体制に、宮台氏は違和感を持っているようだ。 すると、宮台氏は「学校なんて行かなくていいんだよ」と話し、自身の過去を明かす。 「御三家」麻布中学・高校を経て東京大学に入学した宮台氏だが、当時は学生闘争が盛んで、高校2〜3年および大学1〜2年生の頃は、学校にほとんど通っていなかったと言うのだ。 しかし、授業を出ていなかったからと言って頭が悪くなったワケではなく、反対に授業に出ても頭が悪くなった人もいると説明。 ゆたぼん君はその言葉を、「うん……」と静かに聞き、うなずいていた。 ちなみに、しらべぇ編集部が全国10〜60代の男女1,721名を対象に調査したところ、「学生時代に不登校だったことがある」と答えた人は、全体の17. なお、男性16. 7%、女性18. 8%と、女性のほうがやや割合が高いものの、男女間で大きな差は見られなかった。 ネット上で「」と心ない誹謗中傷を受けたこともあり、動画でもアンチに対して敏感に反応している印象のゆたぼん君。 宮台氏の話を聞く際の「うん」という相槌も、心なしか辛そうな雰囲気が出ており、ここまでくるともはや「学校に通ったほうがよっぽど辛くないのでは……」と思ってしまうところだが、今後も茨の道を歩むのだろうか。

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『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの|Real Sound|リアルサウンド 映画部

天気の子 宮台真司

ポストヒューマンから読み解く『天気の子』の可能性 新海誠の監督第7作となる最新作『天気の子』が7月19日に、いよいよ公開されました。 興行収入250億3000万円という日本映画歴代2位の大記録を打ち立て、ハリウッドでのリメイクも決定し、さまざまな意味で日本アニメの転換点になったとも評価された前作『君の名は。 』(2016)から3年ぶりの待望の新作です。 公開後の観客動員も好調なばかりか、批評的にも、すでに『君の名は。 』以上の賛否両論を巻き起こしているようです。 周りに身寄りもなく、貧しい彼らが陽菜の特殊能力を活かして晴れ間を呼び寄せるビジネスを始めますが、しかし、やがて陽菜にはその能力の代償となる、ある宿命が隠されていたことが徐々に明らかになっていきます。 さて、昨今、「ポストヒューマン」や「ノンヒューマン」という言葉が世間の耳目を集めています。 「オブジェクト指向の哲学」などという思想もあり、それらは記号や物体をあたかも生きものや人間のように動かすアニメーション表現それ自体ともしばしば結びつけられたりします。 ともあれ、それらは総じて現代世界のさまざまな変化の渦中で、かつての「人間」のイメージや位置づけが変わってきた事態を手広く名指すキーワードでしょう。 ぼくもこれまでそうした視点からアニメーションや新海作品をたびたび論じてきたりしました。 このレビューでは、さしあたりそうした視点からこのヒット作を読み解いていきたいと思います。 キャラクター表現の初期作への回帰 まずはそのことを、新海作品の系譜から紐解いてみましょう。 今回の新作で目を引くのは、主人公の帆高や陽菜のキャラクター造型の薄っぺらさでしょう。 神津島にいる家族のもとから家出してきたという帆高にせよ、映画の冒頭シーンで母親を亡くし、弟の凪(声は吉柳咲良)とともに安アパートで暮らしている陽菜にせよ、彼らの過去の説明は極端に省略され、また、今回の作品のモティーフである天候=風景描写の濃密さに比較すると、その感情や行動の説話的連続性や描きこみはかなりほつれ気味で、表層的な印象を受けます。 今回、作品を観た少なからぬ観客がすでに指摘している、ラストの帆高の行動の選択と物語の結末の、いささか唐突で消化不良気味にも見える印象も、こうした設定や描写の希薄さに由来しているといってよいと思います。 事実、その点については新海自身も、公式パンフレットのインタビューのなかで、「トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思った」(16ページ)ので、帆高の家出の理由をあえて意図的に語らなかったと述べ、また、当初、「父親殺し」のような濃密な関係性を割り振っていたという帆高と、彼を自身の零細編集プロダクションへ雇う須賀圭介(声は小栗旬)のあいだの描写も、より穏当なかたちに変更したと明かしています(14ページ)。 こうした『天気の子』の演出は、さしあたり前作『君の名は。 』とはいかにも対照的です。 『君の名は。 』では、ヒットメイカーとして知られるプロデューサーの川村元気の意向が大幅に反映されたと思われますが、そのために新海アニメーションの代名詞的なイメージであった風景表現が相対的に抑制され、代わって田中将賀のデザインによるキャラクターの描写や演出のほうが強調されていました。 ひるがえって、その意味で(同じ田中が引き続きキャラクターデザインを手掛けているにせよ)『天気の子』は、新海のフィルモグラフィからいうと、むしろ『ほしのこえ』(2002)から『秒速5センチメートル』(2007)にいたる、初期作品群のテイストに回帰しているといえます。 これまでにもしばしば指摘されてきた点ですが、これらの初期作品群に顕著なように、本来、新海という作家は、風景表現の緻密さに比較して、キャラクターの造型に関しては弱いところが目立ちました。 そしてそれは、もともと彼がアニメーター出身ではなく、パソコンゲームのオープニングムービーの制作からキャリアを出発させたというユニークな経歴に由来しているとされてきたのです。 つまり、新海のアニメーションの画面とはゲームの背景イラストとそのうえにペタッと載るキャラクターの立ち絵にそのままなぞらえられるのであり、そこではキャラクターの描写もどこかプレーンなものとなります。 『天気の子』の帆高や陽菜の描写は、その意味で『雲のむこう、約束の場所』(2004)の浩紀や『秒速』の貴樹と同様のテイストに戻っているといえます。

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「陽菜も帆高も、加藤浩次も、トニー・スタークにならなくていいんだよ。」天気の子 ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)

天気の子 宮台真司

僕はできるかぎり、生放送やイベント登壇の前には詳細なメモを作るようにしている。 若い頃に準備不足で何度も痛い目に合っているのもあるけれど、それ以上に一つの仕事に「やり切った」と思える実感が欲しいからだ(もちろん、準備をしっかりすればするほど、いい仕事を残せる確率は上がる)。 もちろん、その場の展開によって準備したことを半分も話せない、話さないことはよくある。 けれども、しっかり準備すればするほど、その成果は他で応用が効く。 「安物買いの銭失い」という言葉があるのだけど、一つ一つの仕事を、オーバーキル気味にしっかり準備した方が、返ってくるものが多いというのが僕の実感だ。 今日は実験的に、このメモを読みやすく整理して文章に整えて、有料で公開してみようと思う。 このメモは僕のでも公開したものなので、さすがに無料公開はクラブメンバーに申し訳ないし、これが少しはクラブの宣伝になってくれたらいいなという思いもある。 そしてこのメモには、放送では話せなかったこともかなり含まれている。 放送を見た人は既に知っていることだと思うのだけれど、僕はこの映画を、それほど面白いとは感じなかった。 その理由を挙げることにそれほど意味はないかもしれないけれど、その面白くないと感じた理由からいろいろな議論に派生することができて、その意味でこの映画を論じることは映画そのものよりも考えようによっては面白いと思う。 映画は株券でも競走馬でもない。 自分が賭けた作家が当たるか当たらないか、ということが気になってしまう人は、映画やアニメを見るのをやめたほうがいいと思う(いや、見てくれるにこしたことはないのだけど、もっと向いているものがあるだろう)。 その上で、僕がこの映画を見て考えたことを記そうと思う。 この作品はどう考えても『君の名は。 』を経由したからこそできた作品で、それ以前とは全く違う。 では、どこが違うのか。 端的に述べれば、この作品で新海誠はピュアな中二病からビジネス中二病になっている、と思うのだ。 今回、インタビューで新海さんは繰り返し『君の名は。 』での震災の扱いが雑だったことを指摘された(たぶん僕もそのうちの一人に入っているのだと思うが)ことに傷ついて、逆ギレして、今回の『天気の子』は中二病とセカイ系全開に振り切ったという趣旨のことを述べている。 しかし、僕に言わせれば『天気の子』は全然中二病でもなければセカイ系でもない。 「たとえセカイが滅んでも僕は彼女と一緒にいたい」じゃないと、中二病にもセカイ系にもならない。 にもかかわらず、『天気の子』では主人公が銃を撃っても人に当たらない、ヒロインの生還と引き換えに洪水が起きても人が死んだ描写がない。 「あの夏の日、あの空の上で、私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というキャッチコピーがこの作品には添えられていたのだけど、果たしてこれは本当にセカイが変わったと言えるのだろうか。 もちろん、劇中の「設定」ではそうだ。 ヒロインの生還と引き換えに東京が水害によって水没しているのだから。 しかし、その代償は一切描かれない。 端的に述べて、これではまったく心がざわつかない、と僕は思った。 新海誠はインタビューで『君の名は。 』を見て怒った人たちをもっと怒らせたい、と述べていたが、それは二重の意味で勘違いの生んだ発言だと思う。 第一に『君の名は。 』の震災というモチーフの扱いへの批判は、どちらかと言えばその安易さを指摘するものだった。 「怒った人」という解釈はちょっと違うのではないかと思う。 そして第二に、この映画で深海誠は本気で人を傷つけて、怒らせることができていない。 この映画は前述のように、誰も傷つかないように設計されている。 しかし、本当に人を怒らせたいのなら、誰かを傷つけることを恐れてはいけない。 そして、ちゃんと痛みに向き合わないと駄目だ。 誰も傷つかないセカイ系は気の抜けたコーラみたいなものだ。 僕はもうSNSには宣伝以外のものを書く気がなくて、月に8本前後を目安にこのノートを更新していきたいと思っています。 世の中のこと、身の回りのこと、作品評、PLANETSや「遅いインターネット」のこれから、などいろいろ書いていこうと思っています。 小説にも挑戦してみたいです。 無料の公開記事と、有料のマガジンを使い分けて行こうと思っています。 マガジンの購読者が増えると、ずっと続けられると思います。 応援してもらえると分かりやすくやる気が出るタイプなので、甘やかしてください。 生命を宿す絵=「魂画 アニメーション 」の深淵• 171本 動画すなわちアニメーション animation とは、ギリシャ語で「魂」を意味するアニマ anima に由来する言葉だ。 日本を含む古代文明の多くが、森羅万象に魂が宿るとする信仰=「アニミスム animism 」を持ち、当時の人々は万物を神格化した壮大な神話哲学体系を編み上げていった。 その憧れへの歴史は古く、最古のアニメーションは3000年前の中国で生まれた「走馬灯」とも、17世紀西欧の「幻灯機」ともいわれる。 そして今日も新たな『魂』が世界を駆け巡る。

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