スーチー。 アウンサンスーチーさんの自宅軟禁というのは、どういう生活だったのです...

スー・チー

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〔PHOTO〕iStock 問1 ロヒンギャとはどういう民族か? ロヒンギャの人々は独立国家を求めているわけではなく、自分たちの民族名称を認めてもらったうえで、ミャンマー連邦の国籍が与えられるよう求めている。 在外のロヒンギャの知識人によれば、自分たちはミャンマーのラカイン地方に8世紀から住む「由緒ある民族」だと主張している。 しかし、ミャンマーでは政府も国民も彼らを「民族」として全く認めていない。 外国からの不法移民集団だと決めつけている。 ロヒンギャに関する人権問題の立場からの調査は数多くあるが、歴史や人類学・社会学などの実証的研究はほとんど存在しない。 そもそも史料が十分ではない。 したがって、ロヒンギャの特徴について明確に説明できる事柄は、次の5つに限られる。 彼らはインドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)に起源を有し、保守的なイスラームを信仰している。 言語はロヒンギャ語(ベンガル語チッタゴン方言のひとつ)を母語として使用する。 人口は統計がないので不明だが、ミャンマーのラカイン州に推定100万人強が住んでいるとされる。 世界中に散った同胞を含めれば200万人に達すると主張するロヒンギャ知識人もいる。 ロヒンギャ知識人が唱える歴史では、彼らは8世紀からラカインの地に住み続けていることになっている。 しかし、現存する文書史料では「ロヒンギャ」という呼称の使用は第二次世界大戦後の1950年までしか遡れず、その意味では戦後に登場した新しい民族だといえる。 ただ、ロヒンギャを名乗るようになった集団そのものの起源は15世紀まで遡ることができる。 当時のラカイン地方に存在したアラカン王国(1430-1784)の中に、ベンガル出身のムスリムが一定数居住し、王宮内で役職に就く者もいた。 その後、19世紀に入ってラカイン地方がイギリスの植民地となると、ベンガル地方から連続的に移民が流入し、数世代にわたってラカイン西北部に住み着き土着化する。 このときから多数派のラカイン人仏教徒とのあいだで軋轢が本格化する。 20世紀になると、第二次世界大戦中の日本軍のビルマ占領期に、日本側が武装化した仏教徒ラカイン人と、英側が武装化したムスリムとのあいだで戦闘が生じ、日英の代理戦争を超えた「宗教戦争」と化し、両者の対立は頂点に達する。 戦後も東パキスタン(現バングラデシュ)からの移民が食料を求めてラカイン西北部に流入し、独立したばかりのビルマ政府の統治が及ばないなか、その一部はムジャヒディンを名乗って武装闘争を展開した。 以上をまとめると、ロヒンギャを名乗る民族集団は、15世紀からのアラカン王国時代のムスリムを起源に、19世紀以降の英領期の移民、第二次世界大戦直後の混乱期の移民、そして1971年の印パ戦争期の移民の「四重の層」から構成されると推定される。 しかし、彼らが1950年ころに、なぜ「ロヒンギャ」を名乗るようになったのか、その経緯はいまだにわかっていない。 1948年に独立したビルマは、しばらくの間、ロヒンギャを差別的には扱わなかった。 1950年代後半から60年代初頭までロヒンギャ語によるラジオ放送(短波)を公認していたほどである。 しかし、1962年に軍事クーデターが起き、政府軍(国軍)が主導するビルマ民族中心主義に基づく中央集権的な社会主義体制(ビルマ式社会主義)が成立すると、扱いが急速に差別的となり、1978年と1991-92年の計2回にわたり、20万人から25万人規模の難民流出をひきおこしている。 この間、1982年に改正国籍法(現行国籍法)が施行されると、それに基づき、ロヒンギャはミャンマー土着の民族ではないことが「合法化」され、ロヒンギャを主張する限り、外国人とみなされるようになった。 状況によっては臨時の国籍証明書が与えられ、自ら「ベンガル系」であることを認めた者には正規の国籍が与えられることもあった。

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「ひと脱ぎ」で一躍有名に!女性スターランキング、1位はスー・チー―台湾 (2012年8月12日)

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仏教徒が多数派のミャンマーで少数派イスラム教徒ロヒンギャが迫害されている問題が、国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)で審理されることになった。 ミャンマー政府が「ジェノサイド(集団殺害)」をしたとして訴えられ、10日からの口頭弁論ではアウンサンスーチー国家顧問が反論する。 国家首脳が自ら国際法廷に立つのは異例。 民主活動家としてノーベル平和賞も受けたスーチー氏だけに、その発言に注目が集まっている。 ミャンマー政府が訴えられたのは11月。 ロヒンギャ問題でミャンマーをたびたび批判してきたイスラム協力機構(OIC)を代表する形で、西アフリカのガンビアが原告になった。 双方の主張を聞く口頭弁論は、10~12日にICJで開かれる。 スーチー氏は11日と12日に発言する予定だ。 ロヒンギャの人々の多くは、ミャンマー西部のバングラデシュとの国境地帯で暮らす。 仏教徒が9割近くを占めるミャンマーでは、バングラデシュからの招かれざる移民とみなされ、国籍を与えられないなどの差別や迫害を受けてきた。 さらに2017年8月に起きた….

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[生]1945. ビルマ,ラングーン の政治家,民主化運動指導者。 ミャンマー独立運動の父と呼ばれるの長女,母は著名な外交官。 1960年母のインド大使着任に伴ってインドに渡り,当地で教育を受けた。 その後,イギリスのオックスフォード大学に留学,政治学,哲学,経済学を学んだ。 1972年イギリス人学者マイケル・エアリスと結婚。 1988年に単身帰国,軍事独裁政権に抵抗して同 1988年9月に を創設,書記長に就任した。 反政府運動を率いて活躍したが,1989年7月に NLD議長とともに自宅軟禁処分となった。 軍事政権から国外退去を条件に自由を認める提案を受けたが拒絶。 1991年 NLD書記長を解任されたが,1995年7月に軟禁を解かれると 10月には NLD書記長に復帰。 2000年9月から 2002年5月まで再度自宅軟禁。 2003年に再び自宅軟禁となり,2009年に国家転覆防御法違反で逮捕され,有罪判決を受けた。 2010年に NLD解党。 2011年8月,文民出身の大統領との会談が実現,同年 12月にはアメリカ合衆国のヒラリー・R. 国務長官と会談した。 2012年4月に実施された下院補欠選挙に復党した NLDから出馬して当選を果たした。 1991年,非暴力によるミャンマーの民主化運動への貢献によりノーベル平和賞を受賞,同年サハロフ賞も受賞した。 著書に『自由 自ら綴った祖国愛の記録』Freedom from Fear: And Other Writings(1995),『増補復刻版 ビルマからの手紙 1995~1996』Letters from Burma(1997)など。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 ミャンマー ビルマ 民主化運動の象徴的存在。 1945年、ビルマ独立の指導者アウン・サン将軍の長女として、首都ラングーン 現ヤンゴン に生まれる。 15歳の時、母キン・チ-のインド大使就任に伴い、ニューデリーに移住。 名門女子大レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、英国のオックスフォード大学に進学し、哲学・政治学・経済学の学位を取得した。 卒業後、69年から71年までニューヨークの国連本部に勤める。 72年、英国人仏教学者マイケル・エリアス 99年に死去 と結婚し、約1年半、ブータン王国外務省で研究員として働く。 その後、ロンドンに拠点を移し、父アウン・サン将軍の研究を始める。 85年10月、父の足跡を追って来日し、翌年6月まで京都大学東南アジア研究センター 現・同大東南アジア研究所 の客員研究員として滞在した。 88年、26年間にわたって軍事独裁を続けてきたネ・ウィン元大統領が党総裁 ビルマ社会主義計画党 辞任を発表すると、ビルマ国内で学生を中心に激しい民主化運動が起こった。 母の看病で帰国していたスー・チーも、これに合流。 同年8月26日、シュエダゴン・パゴダで、数十万人の聴衆を前に民主政権の樹立を訴えた。 この演説の後、国民民主連盟 NLD を設立し、書記長に就任。 ビルマ国内を遊説するなど、本格的な政治活動を開始したが、クーデターで全権を掌握した新軍部の国家秩序回復評議会 SLORC によって、89年に自宅軟禁に置かれた。 90年5月の総選挙では、NLDが圧倒的多数の議席を得たものの、SLORCは政権委譲を拒否。 その後、 、97年にSLORCから改組 のタン・シュエ軍事独裁政権が現在まで継続することになる。 スー・チーの自宅軟禁は98年7月に解かれるが、その後も、拘束・軟禁は2000年9月~02年5月、03年5月~10年11月と計3回にわたって繰り返された。 1回目の軟禁中には、人権擁護への貢献が認められ、1990年に10月トロルフ・ラフト賞 ノルウェー財団 、91年7月にサハロフ賞 欧州議会 を受賞している。 91年10月には、民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。 大迫秀樹 フリー編集者 / 2010年 出典 株 朝日新聞出版発行「知恵蔵」 知恵蔵について の解説 職業・肩書 民主化運動家,政治家 国民民主連盟 NLD 党首,ミャンマー下院議員 国籍 ミャンマー 生年月日 1945年6月19日 出生地 ビルマ・ラングーン ミャンマー・ヤンゴン 学歴 デリー大学卒,オックスフォード大学〔1967年〕卒 勲章褒章 オーストラリア名誉勲章〔1996年〕, 自由勲章 米国大統領 〔2000年〕, レジオン・ド・ヌール勲章 受賞 ノーベル平和賞〔1991年〕,サハロフ人権賞〔1991年〕,シモン・ボリバル賞〔1992年〕,ブレーメン連帯賞〔1993年〕,ネール賞〔1995年〕,アメリカン大学名誉博士号〔1997年〕,オロフ・パルメ賞〔2005年〕,マハトマ・ガンジー国際平和和解賞〔2009年〕,オックスフォード大学名誉博士号〔2012年〕 1993年授与決定 ,自由都市・堺平和賞 第3回 〔2012年〕,地球市民賞〔2012年〕 経歴 英国の植民地支配と闘ったビルマ建国の父として国民に敬愛されるアウン・サン将軍の長女。 その後オックスフォード大学に留学。 英国市民権を持つ。 8月セイン・ルイン政権が崩壊、反政府統一戦線結集会で民主化の早期実現を訴え、反政府勢力の中心的存在として脚光を浴びる。 9月ビルマ最大野党の国民民主連盟 NLD 総書記長に就任。 再び反政府運動が激化したため、7月ソウ・マウン軍事政権によりヤンゴンの自宅で軟禁され、以後政治活動を禁止され、2010年まで断続的に軟禁状態が続いた。 一度出国すると軍事政権側に再入国を拒否されるおそれがあるため、夫の葬儀にも出席しなかった。 2010年11月自宅軟禁が解かれる。 2011年春、ミャンマーは民政に移管。 2012年1月NLD議長 党首 に選出。 4月連邦議会補選で下院議員に初当選。 2013年3月党首再選。 2015年11月、民政移管後初の総選挙でNLDが軍事政権の流れをくむ与党・連邦団結発展党 USDP に圧勝し、第1党となる。 著書に「Freedom from Fear 恐怖からの自由 」 1991年。 出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」 現代外国人名録2016について.

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