三浦 環。 【エール】音丸が歌った船頭可愛やは売れなかった?三浦環でヒットしたのは本当か

うらろじ探訪47本目 伝説のプリマドンナ「三浦環」との縁を語る座談会|新着情報|富士山の見える温泉旅館。富士山温泉ホテル鐘山苑公式HP

三浦 環

NHK連続テレビ小説『エール』で、柴咲コウさんが演じるソプラノ歌手双浦環のモデルは、「マダム・バタフライ」と言われた実在の国際的オペラ歌手・三浦環(1884ー1946)だ。 まさに『エール』でドラマが展開している昭和初期、三浦環自身が『婦人公論』(昭和11〈1936〉年10月号)に自叙伝を寄せていた。 1回16ページを全3回という膨大な分量でもって、52歳の環が振り返る「偽りなき過去」とはーー。 もう二十年になる。 よくも旅の空で暮らして来たものかなという感がさすがに深い。 人々は私の顔を見ると余程気になると見えて、皆そういって聞く。 もういい加減に落ちついたらよさそうなものだという相手の気持が、私にも解らないのではない。 解らないどころか、日本は帰って来る度に、段々住みよい国になっているし、此頃は町を歩いていても、自分の周囲にいる人達が、皆日本人だなと意識する毎(ごと)に、何ともいえない心強さを感じる。 「ああ自分は日本にいるんだな、自分のまわりにはこんなに沢山の日本人がいるんだな」と思う時の非常に安易な気持、これだけは長い間外国に暮らした人でないと、解って貰えないと思う。 私がそんな風に考えるのは、それだけ年を取ったのかと思うこともあるが、これは決して年の故(せい)ではない、いわばどうしても消すことの出来ない、民族的な気持なのであろう。 年のことがでたからついでにいって置きたいと思うが、私は明治十七年の二月二十二日生れだから、丁度(ちょうど)今年で五十二歳になる。 もし永遠の子供というものがあるなら、私に一番ふさわしい言葉であろう。 私は五十になった今でも、全く生れたままの、子供のような気持、素直にあるがままのものを受け入れ、素直にものに驚く気持を持ち続けている。 私が少しでも人に愛せられ、比較的長い間唄い手としての名声を持ち続けてこられたのも、才能とか天分とかの外に、こういう気持ちがあったからであろう。 このほとんど、生のままの子供らしい感情が、いつ迄も私から年というものを感じさせないのであろう。 しかしこの感情のために、私は損をしたことも随分多いのは事実だ。 このために自分の行動は、或時は突飛(とっぴ)にも見え、また見る人によってはお芝居染みても見えたであろう。 それがために自分の運命は複雑になり、つまらぬ誤解なども受けることが多かったが、それだからといって、自分の子供のような感情を、自分自身、少しも厭だなどとは思ってはいない。 私がかつて亡き三浦〔編集部注:夫・三浦政太郎のこと〕の墓前で歌を歌っては泣き、畏友サルコリー氏の死に際しても、歌を歌っては泣いたということでとやかくいう人もあるらしいが、それらは皆私の感情の自然な流露なのである。 私はああいう風にしか自分の感情を表現する術を知らないし、突如として私の感情は高まり、私は全く自然の児のままに涙を流さずにはいられないのだ。 それはともかくとして、そもそも此二十年の間に、私が意識して自分自身偉くなろうとか、そういう風にたくらんで、今の位置に迄到達したのではない。 無論私は血の出るようなたゆみなき勉強を続け、また現在でもそれを怠ってはいないけれど、それすらも、自分が偉くなろうという意識でやっているのではなく、自然自然に水の低きにおし流されるように、現在の三浦環という境地に来てしまったのである。 jp 本自叙伝が掲載された『婦人公論』昭和11年10月号 「日本の女」という重い責任をせおわされ 振り返って見ると、此二十年の間、気の弱い子供のようなムキ出しの感情を持った私が、女の身で、誰一人相談相手もなく、世界のあらゆる国々を経めぐって、しかもまた他方には「日本の女」という重い責任をせおわされ、よくも心細い道を渡って来られたと思う。 しかもいろいろの迫害や、心細い淋しさなど、華やかな喝采の裏には必ずつきまとっているものだ。 試みに、自分が歩いて来た国々をあげて見るなら、英国を振り出しに、北アメリカ、南アメリカ、ハバナ、キューバなどで名高い中部アメリカ、伊太利、スペイン、ギリシヤ、エジプト、ドイツ、オースタリー、ロシア、レトアニアなどの諸国である。 そういう果てから果迄の国々を歩いていて、何よりもはっきりと心に来るのは、自分は日本の女だという意識である。 これを汚してはならないという意識。 それは不思議な程強烈なものであった。 だから私はどのようにいい友達同士になろうとも、日本の国籍をふりすてて、外国人と結婚しようなどとは、私は一度も思ったことはないのである。 が、しかし、私は今、それらの国々に残して来た夢を忘れて、愛する老母と、東京に生活している。 人が見たら本当に粗末な、簡易なと驚く程の生活をしてい乍(なが)ら、しかも私は非常に幸福なのだ。 愛しても愛しても、愛したりない程、私は老いたる母を愛している。 鶯小町と言われた祖母 (二) 私の母、柴田とわ子は、私の口からいうもおかしいが、美しい男勝りの気性だった。 父はそのころは真面目一方の男で、遠州朝日奈村、今の吉岡弥生女史と同郷だが、その朝日奈村の地主で、酒造業を大きく営んでいた。 名前を柴田孟甫(もうぼ)といったが、大変な働きもので、一日に作男を相手に、五百斗の酒をこなすのは何でもないといわれていたくらいだ。 母が嫁いで来た頃は、四十幾歳かの姑がいて、つまり私の祖母なのだが、それがまた朝日奈小町といわれた位、近郷近在に鳴り響いた器量好しで就中声の美しいことは評判だった。 かげでは鶯(うぐいす)小町などというものさえあったそうだ。 祖母が野良へ出て、百姓をし乍ら、何ともいえぬいい声で歌を歌うと、畦道を通る人達が、皆立止って耳をかたむけないものはなかったという。 いいお声じゃったがね、それにまあその美しいことといったら、若く艶々としていて、嫁の私の方が余程老けて見られる位じゃった。 母がよくそういって私に話して聞かせてくれた。 私はお祖母さんの顔はよく覚えているが、残念なことにはその声には少しの記憶もないのだ。 後年私が音楽の道に志すようになったのも、一つはこの祖母の素質を受けついでいたのかも知れない。 南国の晴れた青い空に響く祖母の歌声は、どんなに美しかったろうと、私は母の話から、いつも想像するのだ。 二十時間も一声も泣かなかった赤ん坊 父はなかなか青雲の志を抱いた人で、何しろ働き者だったから、家業の酒作りで、ざくざくと面白いように御金がもうかったというから、このまま一介の酒造りで終わってしまい度くないと思ったのだろう。 それには弟があって、その弟にも学問をさせてやりたいし、田舎の家を畳んで、丁度父が二十八歳の年に上京して来たのだ。 芝の今入町に五間程の家が百円で売物に出ているというので、それを買い取って住居を定めた。 明治十四年だったがその頃の物価はこんなものだったらしい。 父は法律を勉強するために、今の明治大学、その頃の明治法律学校に入学した。 当時は学生の年などは一向かまわなかったらしく、三十、四十の法律書生などは少しも珍しくなかった。 それから三年たった冬私は生れたのだ。 私より前に男の子が二人あったが、どれも育たなくって、私は三番目の子供だった。 私の生れた時も、あまり寒さのためか、凍えてしまって、二十時間も一声も泣かなかったそうである。 この数字の因縁ということについても考えたことがある。 父が思い切って上京したのが明治十四年、私が外国へ出かけたのが一九一四年、また私は生れてかっきり二十時間泣かなかったそうだが、外国でのオペラシンガーとしての生活が二十年、そういう数字の持つ不思議さを、私は時々考えることがある。 父は男の子が育たなかったから、今度は女乍らも男のように育てるという意味で、環という男のような名前をつけてくれた。 そうして私は温い両親の庇護のもとにすくすくとのびて行ったのだが、そのうちに父は非常な難関だといわれた第一回の公証人の試験に及第して、公証役場をはじめることになった。 絶えず独立ということが、頭にあった母 母もまた父に負けず劣らず頭のいい人で、今から考えれば、その頃では随分進歩的な部類の女だった。 父の仕事も段々忙しくなってくるし、自然父も遊びを覚えるようになって、いろいろ女出入で母を苦しめることが多くなったので、母も何かと考えるところがあったのだろう。 父にばかり頼っていたのでは心細いというので、生れたばかりの私を女中に預けて、横浜のフェリス女学校へ英語教師になるために、英語を習いに行った。 だがやっぱり赤坊の私が心配になって、中途で思い切るようなことになってしまった。 それでも絶えず独立ということが、頭にあったのかして、今度は日本で初めての編物の講習を、後藤新平さんの奥さんや、澁澤さんの奥さんなどと御一緒に受けて、そこではいっぱし先生代りを勤めることが出来た。 御裁縫を習えば習うで、いつでも先生の代理をしていたし、非常に器用な、頭のいい人だった。 そんないろいろなことを自分はし乍ら、私には、女中を二人つけて、文字通り御乳母日傘(おんばひがさ)の生活を送らせてくれた。 三つの年から私は藤間流の踊を始めていた。 その翌年御さらいのあった折など私が「静御前」を踊る後に、乳母が牛乳瓶を持って待っているというさわぎ。 性来の負けず嫌いがこんなところにも顔を出して、子供心にもきびしい稽古を受けたと思っている。 或時などはこんなこともあった。 舞台の前に座っていた先生が、もっと足をあげてとおっしゃるので、自分はもっともっと足をあげようと思うのだが、さっきから用を催していて、足があげられない、足をあげれば必ず粗相をしてしまうに違いない、私は三つ許(ばか)りの子供心にも歯を食いしばって我慢したものである。 とますます激しくおっしゃる。 とうとう我慢し切れずに、美しい着物の裾をぬらして、思うさま舞台の上に、粗相をしてしまったのである。 こんな思出は、今思い出しても、子供のくせに我慢強い私であったとつくづく思わされて、なつかしい気がするのである。 「私はこんな声の美しい生徒は初めてですよ」 (三) 六つの年に、私は富士見幼稚園から、芝の鞆絵(とりえ)小学校に入学した。 丁度その年から吉住について長唄もはじめていたが、何よりも自分について思出の深いのは、当時の唱歌の先生、植村くに子さんのことだ。 私が初めて君が代を歌った時、「まあ」といい乍らオルガンを弾く手をやめて、私の顔を見入ったものである。 「まあ、芝田〔ママ〕さん、何といういいお声なんでしょう。 私はこんな声の美しい生徒は初めてですよ。 しっかり御やりなさいね」 と、植村先生は感嘆し乍ら、私に再三再四君が代を歌わせるのだった。 それからは音楽会や、学芸会のある度に、植村先生が、ヴァイオリンで伴奏して、私は君が代を歌わせられた。 間もなく、私はまた山田流のお琴の稽古を始めさせられて、全く音楽責めというような形だった。 が、私自身は遊びたい盛りで、何も特別に熱心に稽古をしようという気はなかったから、いつもずるけて遊んでばかりいた。 大体父が、二人の男の子を亡くしているので私は体育本位、遊びたいだけ遊ばせて置くという主義だったのでちっとも勉強などしなかった。 それでも不思議なもので、母などにいわせると、身に備わったものがあるのか、琴でも長唄でも抜群の成績で、学校の方もいつも級長だった。 十四の年に虎の門女学館へ入学した。 当時の虎の門というのはなかなか華やかな学校で。 いろいろの小説などにもうたわれて、一世を風靡した時代だった。 ここでもまた、外の学課より第一番に、私の音楽の才能は、杉浦ちか子先生によって認められて、しきりに上野の音楽学校入学をすすめられたものである。 父はもとより大反対で、女に女学校以上の教育は不必要であるばかりでなく、ましてや音楽学校へ入れて西洋音楽など修めさせるとはもっての外、そんな西洋の音曲など習わして、西洋の芸者にでもさせるつもりかと、大立腹だった。 本当にお母さんを幸福にしてあげたい 此間にあって、母はいろいろ私を慰めてくれた。 でも、そんなに行きたいというんなら私からまた何とかお父さんに話してあげようね。 只ね、お母さんがお気の毒でしょう。 というのは、父の女狂いが相変らず止まないで、いつでもお妾が絶えたことのない状態で、母は父から忘れられて、いつもしょんぼり暮らしていたのである。 だから私は自分で独立して、本当にお母さんを幸福にしてあげたいの。 結婚とか養子とかいうことは、いわば誰でもどうでもいいことで、私にはようやく自分の中に目を覚まされた、音楽に対する野望が、大きく燃え盛るばかりだった。 「自転車を買ってやる。 それに乗っておゆき」 それには杉浦先生も随分力を添えて父を説いて下さったので、父の心もとうとう折れた。 きっとやりとげます。 その代りいっておくが、芝から上野迄、毎日車で通わせる訳には行かんから、自転車を買ってやる。 それに乗っておゆき。 私はびっくりしてしまった。 それはまるで難題みたいなものだったから。 あの藤井善一という男のことだがね、あれはなかなか見込みのある男で、俺は十分買っておるんじゃ。 だから、あれをお前の養子ということにきめたから、承知して貰いたい。 でも学校の方は。 丁度藤井は支那へ五年間赴任しなければならないそうだから、其間はお前は学校へ行っておるがよかろう。 とにかく内祝言だけはあげることにするからそのつもりでいなさい。 藤井軍医正は私よりも十二歳年上だったが、どこといって別段非難のしようもない、立派な青年士官だったから、私もこの結婚に対して不服の唱えようがなかったのだ。 それよりも私の心の中は音楽学校へ行かれるという喜びで一杯だった。 芝の区役所の庭で、暗くなる迄自転車につかまって毎日毎日練習をしたものだった。 その頃女が自転車に乗るものなどは一人も無かったから、それを申しつけた父も突飛なら、学校へ行きたい一心から、その稽古を始めた私も随分変った女に見えたことだろう。 十七の年に、私は音楽学校入学を許され、続いて藤井軍医正は内祝言をすませて、別かれを惜しみ乍ら支那へ発って行った。

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三浦 環

生涯 [ ] 生い立ち [ ] 1884年(明治17年)2月22日、(現在の内の)に生まれる。 (現・)出身での柴田孟甫(本名・熊太郎)を父に、同県城東郡(現・)出身の永田登波を母にそれぞれ持ち 、3歳の頃からを、6歳の頃からとを各々習い始める。 その後、虎ノ門の東京女学館に入学。 そこで(現・)出身の音楽教師・杉浦チカから音楽家になることを強くすすめられ、1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学。 をに、をにそれぞれ師事、更にはもアウグスト・ユンケルについて学ぶようになる。 入学直前に父親の勧めで陸軍三等軍医正、藤井善一と結婚(1907年離婚)。 日本人初のオペラ [ ] 東京音楽学校在学中の1903年(明治36年)7月23日、に於いて催された日本人の手による初めての公演に出演し、成功を収める。 (明治37年)に同学校を卒業した後、奨学金を得て研究科に入ると同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を教えるようになる。 その後、となる。 この間にらを指導した。 にに所属して、1912年3月に初吹き込みを行い、として活躍を続ける。 欧米各国での活躍 [ ] 1913年に柴田家ので(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年ににする。 しかしの戦火を逃れてに移動。 三浦環 1917年 1915年のイギリス・デビューの成功を受けて同年に渡米し、で初めて蝶々さんを演じる。 好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やの『』をや、で演ずることができた(三浦環はに迎えられた最初の日本人歌手である )。 その後に戻りロンドンで歌劇団と共演した。 1918年にに戻り、『蝶々夫人』との『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。 1920年に、、、、、の歌劇場に客演する。 1922年に帰国するとに留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。 またレコードも大ヒットし、同年11月時点でだけで8万枚を売り上げた。 1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。 1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。 その後はで歌手活動を続け、1935年にはので『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した。 永住帰国 [ ] パレルモで『蝶々夫人』自身出演2000回目を達成した環は、これを機に永住帰国を決断、1935年11月に帰国。 翌1936年の6月26・27両日、東京のに於いて開かれた原語(イタリア語)による『蝶々夫人』公演に自身2001回目の出演を果たした。 以後、日本国内に於いてオペラへの出演やリサイタル開催、レコーディングなどを重ねていった。 ことに『蝶々夫人』に関しては、自身による日本語訳の歌詞にて上演したこともあった。 その疎開先では、同じく疎開した母親の登波を看病する傍ら、ピアノも疎開先に持ち込み、地元民と気さくに交流したり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんだりしていた。 また、子供好きの性分から、近所の子供達に歌を教えたりしていたともいわれている。 終戦そして人生の終焉 [ ] 太平洋戦争の終戦から4ヶ月弱経った1945年12月1・7両日、に於いて作曲『』全24曲のリサイタルを計4回開いた。 この一連の公演では自身が疎開中に翻訳した日本語の歌詞が用いられている。 1946年に入ると目に見えて衰弱し始め、3月には大東学園病院に入院、のため一人では歩けない身体となっていた。 それでも同年3月21日に日比谷公会堂でシューベルトの歌曲集『』全20曲のリサイタルを開いたほか 、翌4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った《4月5・9・16各日》。 NHKに於ける3回目の録音から9日経過した1946年4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に転院。 手術の可能性を探りたいという医師側の意向からを受けていた。 しかし、翌5月22日には状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。 なお、死の2日前(5月24日)には、状態の中、ドビュッシーの『バルコン(露台)』〔歌曲集『シャルル・ボードレールの5つの詩』から第1曲〕を口ずさんでいたという。 環の死去を受けて、死後2日経過した1946年5月28日に最初の入院先だった病院の母体である大東学園の講堂に於いてが営まれた他、翌6月7日には日比谷公会堂に於いて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大『蝶々夫人』歌手の一人として知られたや、環との共演者の一人である歌手の等から追悼メッセージが寄せられた。 亡骸は、生前残した「の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言に基づき 、前年(1945年)に亡くなった母・登波と共に、山中湖東岸に程近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。 その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている。 評価 [ ] お蝶夫人三浦環の像 (にある銅像) 作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。 少女時代にを学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。 その名声ゆえに、やといったスター芸術家とも共演する。 三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のに建っている。 のプッチーニ博物館(晩年の家)の歌手たちの写真を集めた一角には、日本語で「親愛なるジヤコモ・プチニ先生へ」と書かれたサイン付きの三浦環の写真が展示されている。 にも歴代のプリマ・ドンナと並んで写真が展示されている。 関係者 [ ]• 著名な門弟に、長坂好子、、鈴木乃婦、、、がいる。 - 夫の時代の親友で、三浦夫妻のシンガポール時代の総領事であり、アメリカ時代には参事官としてに赴任していた。 - 夫の帝大時代の恩師• イギリス時代には、、、、、、の妻・雪、夫妻らと交流を持った。 アメリカ時代には、、、一家、らと交流を持ち、15年間の滞米中に、、、と三代の大統領の前で歌う機会に恵まれた。 環の元情夫と噂された新聞記者の千葉秀甫(秀浦)は、帝劇出演に際し環が世話になった人物で、環に結婚を迫り、シンガポール、ドイツまで追いかけたとされる。 千葉は語学が得意で、翻訳書などの著書があるほか 、渡欧後はスライドを見せながら日本の文化を紹介する講演会で各地を回り、第一次大戦でスイスに逃れたのちに落ちぶれてローザンヌで没したという (で客死とも )。 座光寺秀次郎(天卿)の名で書生芝居の役者をしていたこともあり、明治の女性落語家・の元夫。 著書 [ ]• 柴田環『世界のオペラ』共益商社 1912• 『わが芸術の道』世界創造社 スメラ民文庫 1942• 『お蝶夫人』編 右文社 1947• 『お蝶夫人 伝記・三浦環』大空社・伝記叢書 1996• 『人間の記録 三浦環 お蝶夫人』日本図書センター 1997 翻訳 [ ]• 『お蝶夫人 歌劇』音楽世界社 1937 関連書籍 [ ]• 吉本明光『三浦環のお蝶夫人』音楽之友社・音楽文庫 1955• 『三浦環 永遠の歌姫』ポプラ社・偉人伝文庫 1956• 『永遠の蝶々夫人三浦環』春秋社 1995• 『考証三浦環』近代文芸社 1995 フィクションにおける三浦環 [ ] 小説• 『お蝶夫人 小説三浦環』講談社 1969 のち文庫 映画• ( 演:) テレビドラマ• ( 演:)• ( 演:)• ( 演: ) - 「双浦環」として登場。 ラジオドラマ• ( 演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 出生地を「(東京・芝)」としているサイトも存在する。 但し、少なくとも(現・)入学以降の時期には「東京市芝区」内に在住していた• 「ピアノを瀧廉太郎に、をユンケルに習う」というふうに記述するものも存在する• この公演は、(現・東京芸術大学美術学部)、東京音楽学校の学生や卒業生たちにより催された。 演目は作曲『』で、三浦はこの主役にあたるエウリディーチェ役を演じた。 なお、当時は未だ本格的なは存在しなかったため、ピアノ伴奏により行われたとされている• 環が務めた(蝶々夫人)以外の主要キャストとして、海軍士官ピンカートン役にはと渡邊光の、アメリカ領事シャープレス役には下八川圭祐が配された。 このほか、演出はが担い、管弦楽は篠原正雄指揮が担っていた。 この大阪市内に於ける公演は、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)卒業生で組織する「同声会」の大阪支部の主催により開かれたもので、開催時点で同支部の支部長を務めていたはの創立者としても知られている• 当該リサイタルの開催にあたっては、当時入院していた大東学園病院の荘司医師が付き添っていたほか〔注射したりもしていた〕、舞台上へはマネージャーや弟子の手を借りながら登場していた。 なお、舞台衣装としてを着用した。 1回目の録音は4月5日に行われ、シューベルトの歌曲集『冬の旅』全曲を収録。 3回目は4月16日に行われ、「庭の千草」・「ケンタッキー・ホーム」・「ホーム・スイート・ホーム」等のポピュラー曲を管弦楽伴奏付きで収録している。 これら計3回の録音のうち、2回目の録音では当時のNHK第1スタジオが使用され、管弦楽(クラウス・プリングスハイム指揮)が用意された一方、舞台裏には簡易便器も用意されていたという 出典 [ ]• マダム・バタフライとは. マダム・バタフライ インターナショナル財団. 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 酒井義夫(いずみ書房創業者) 2014年5月26日. 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ. 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 :海外に雄飛した歌い手の先人たち』、2005年、10頁。 一般・図書館向け~文芸・読みもの. 1997年6月. 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 坪井賢一、ダイヤモンド社、ダイヤモンドオンライン、2014. 春祭ジャーナル~東京・春・音楽祭. 東京・春・音楽祭実行委員会. 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) 2014年8月22日. ダイヤモンド・オンライン. 2016年2月22日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 『自伝 若き日の狂詩曲』()、1996年6月。 「改版あり(初回刊行「2016年1月21日」・ISBN「4122062187」)」• 『』1922年8月3日(『日本レコード文化史』(東書選書 124)、1992年、113頁。 ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年2月21日閲覧。 2016年3月13日閲覧。 昭和音楽大学オペラ研究所オペラ情報センター. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 おんがく日めくり. ヤマハ. 2007年11月5日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 大阪音楽大学創立100周年誌編集室. 学校法人大阪音楽大学100周年記念事業. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 山中湖村ホームページ(旧). 山中湖村. 2008年5月15日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 工藤正義(三島由紀夫文学館). 山中湖村エコツーリズム. 山中湖村エコツーリズム推進協議会. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 山中湖観光協会. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 山中湖村観光課公式サイト. 山中湖村. 2016年3月12日時点のよりアーカイブ。 2016年3月12日閲覧。 「ナガジン」発見!長崎の歩き方 -• 国立国会図書館デジタルコレクション• 『実話ビルディング : 猟奇近代相』武内真澄 著 宗孝社, 1933• 『茶話 大正六(一九一七)年』、大阪毎日新聞• 吉田昌志、学苑 日本文学紀要第855号、2012• コトパンク• スポニチAnnex 2020年2月3日閲覧 参考書籍 [ ]• New Grove Dictionary of Opera Vol. 3, NY: Macmillan 1972. Michael Scott, The Record of Singing, Vol. 2 1914-1925, London: Duckworth 1979. 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 環の両親の出身地である静岡に於いて、1996年から3年おきに開催 外部リンク [ ]• is」内に残存• 1917年録音.

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三浦環

三浦 環

没年:昭和21. 26 1946 生年:明治17. 22 1884 明治から昭和戦前のオペラ歌手 ソプラノ。 歌劇「蝶々夫人」の国際的歌手として著名。 東京生まれで,父は日本初の公証人柴田孟甫。 東京音楽学校 東京芸大 在学中から,明治36 1903 年の歌劇「」ほかに活躍。 卒業後は同校で教職に就くが,音楽家生活のため,入学前に結婚した軍医藤井善一と40年に離婚し話題となる。 44年帝国劇場設立で専属となり,三つの創作歌劇などに主演後,帝劇を離れて医師政太郎と結婚。 大正3 1914 年夫妻で渡欧し,ロンドンで指揮者ウッドに認められ,独唱会と翌年の「蝶々夫人」主演で,西欧的演奏に比し「新鮮さ」で大成功。 渡米してシカゴを最初にアメリカ大陸とのちに欧米の各地で蝶々さんを歌い大活躍し,「イリス」と「お菊夫人」アメリカ初演にも主演した。 大正9年政太郎の帰国後も海外にとどまり,同11年の環の一時帰国で伴奏者との関係が話題を醸す。 昭和4 1929 年政太郎死去。 7年までに2000回 おそらくアリアだけの演奏も含む の「蝶々夫人」を終えて帰国。 その後は11,12年の「蝶々夫人」公演のほか,門下生とのオペラ数回と,演奏会,放送,レコードなどに活躍。 21年4月15日に最後の放送録音をして,40日後に腹部腫瘍 おそらく癌 で死去した。 当時の日本の音楽界で図抜けた才能・・業績にもかかわらず,生来の率直で飾らぬ性行が誤解を生み,国内での晩年は比較的に不遇だった。 吉本明光編『お蝶夫人』のほかに著書2冊とSP録音のレコード多数がある。 増井敬二 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 ソプラノ歌手。 旧姓柴田 しばた。 明治17年2月22日、東京に生まれる。 1903年(明治36)東京音楽学校在学中、同校の奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でエウリディーチェ役を歌った。 翌年卒業後、母校の助教授となるが、11年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。 13年(大正2)三浦政太郎と結婚。 翌年5月渡欧し、ロンドンで指揮者ウッド卿 きょう にみいだされ、同年秋、同地で演奏会を開き人気を博した。 15年、ロシアの名歌手ロージンとプッチーニ作曲『蝶々夫人 ちょうちょうふじん 』を歌い大好評。 以後、欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。 その明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどであった。 35年(昭和10)帰国し、翌年、2001回目の『蝶々夫人』演奏会を歌舞伎 かぶき 座で開催。 以後、死去までの10年間は日本で演奏・教育活動を行い、昭和21年5月26日、東京で死去した。 [寺崎裕則] 『瀬戸内晴美著『お蝶夫人』(講談社文庫)』 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説.

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