フセイン 政権。 フセインとは

なぜ、アメリカの援助を受けていたサダム・フセイン大統領が、敵になったのか

フセイン 政権

これらの宮殿はフセイン政権の遺産であり、抑圧政治のシンボルとして反フセイン派の人々に忌み嫌われてきた。 8つの宮殿を合わせた総面積は31. 5平方キロになり、その三分の一は元大統領が作らせた複数の人造湖が占める。 1998年にイラクを視察した国連代表団によると、宮殿施設として豪華な邸宅や貴賓接待用の別荘、執務室、倉庫、車庫など全体で建造物約1000棟が存在する。 「人民宮殿」と呼ばれる本殿は、1930年代に建てられたが、1995年にフセイン氏が別棟を増築。 銘文には元大統領を称賛し、「大統領閣下、最高指導者サダム・フセイン、神に守られた者」と刻まれている。 フセイン政権はこうした宮殿兼要塞を「人々のための宮殿」と称することを好んだが、実際には元大統領が率いたバース()党党員以外は堅く守られた城壁の中に入ることさえなかった。 バグダッドの「共和国宮殿」の碑にアラビア語で刻まれた銘文には、「古代メソポタミアの末裔たちよ、祖国の外から聞こえるものを信ずるなかれ」とある。 碑文は読む者を威圧するようにこう続く。 「ただ汝の指導者、大統領、汝の戦いを導く者、サダム・フセインだけに向けばよい。 彼の語りかけることのみを信じよ。 そのほかに聞こえるものはすべて噂や嘘と信ぜよ」。 「共和国宮殿」と呼ばれた「壕」の中は現在、チグリス川の汚水が浸水し、悪臭が漂い、腐食した絨毯が残っている。 バグダッド第2の宮殿アル・ファウ(Al-Faw)宮殿では、フセイン氏がきらびやかに飾った円形大広間で、元大統領が嫌悪した米国に対し、米軍兵士らが忠誠を誓っている。 バグダッドの3番目の宮殿は、米軍が支援する現イラク政府の官邸があり厳重警戒態勢が敷かれたグリーンゾーン内にあるが、世界でも最大の米国大使館と化している。 バグダッド外の5つの宮殿は、1日に元大統領の遺体が埋葬された場所に近い故郷のティクリット(Tikrit)、イラク第2と第3の都市であるバスラ(Basra)とモスル(Mosul)、バグダッド北西サラヘディン(Salaheddin)州のサルサル(Thar Thar)湖畔、さらに中部サマラ(Samarra)に近いジャバルマフル(Jabal Makhul)にある。 イラク国民数百万人の困窮状態をよそに、元大統領は最大の関心と財産をこれらの宮殿に惜しみなく注ぎ、際限なく大理石を輸入しては、回廊や大広間、金の浮き彫り細工や複雑なモザイクを施した扉にふんだんに使用した。 さらに何万個ものレンガ一つ一つに、自分のイニシャルである「SH」の文字を刻み込ませた。 今日、バグダッド駐在の米外交官らを囲んでいるのは、米政府が最大の敵とみなした人物の何千ものイニシャルだ。 米軍が「信ずる者の宮殿」と別称をつけたバグダッドの共和国宮殿は、実は広島型原爆級の攻撃にも耐えうる設計で建設された最新鋭地下壕なのである。 「この宮殿は、宮殿に見せかけた地下壕です。 壕を隠すために上に宮殿が建てられているのです。 おそらくどんな攻撃にも、核爆弾にも耐えうるでしょう」と米軍の案内役Bob Tubbs軍曹は説明する。 米軍は2003年のバグダッド空爆の初日未明、最初にGBU-28バンカー・バスター爆弾2発(900キロ分)を、続いて6発以上のバンカー・バスターをこの宮殿に投下し、多大な損壊を与えた。 しかし、「スマート爆弾はドームは突き破ったものの、この偽の床に到達したところで爆発して終わりだった。 見てください、ここが地下壕の構造物の一番表側の部分ですが、まったく無傷です。 この壕は、箱が何重にも重なったような構造なのです」(Tubbs軍曹)。 宮殿を模したこの秘密の壕は、1980年代に建設が開始され、2000年に完成。 しかし、2003年3月に占拠され、現在は米国人が警備する。 写真は故フセイン元大統領の宮殿のひとつで、「王座」に座る米軍兵士(2006年11月11日撮影)。

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侵略と抑圧のフセイン政権

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同じイスラム教徒でありながらスンニ派とシーア派の国はなぜ対立するのか。 背景には原油などの経済利権を巡る争いもある。 Q スンニ派とシーア派の違いは。 A もともとは預言者であるムハンマドの後継者をめぐる考え方の違いがある。 632年にムハンマドが死去した後、娘婿でいとこのアリを含む4人を最高指導者のカリフとして認めたスンニ派に対し、シーア派はアリとその子孫を正統な後継者と位置づける。 世界のイスラム教徒人口のうちスンニ派が約8割、シーア派が1割強を占めるとされる。 Q どうして対立するのか。 A 必ずしも信者同士が互いを敵視しているわけではない。 イラクなどでは異なる宗派同士が結婚することもしばしばだ。 表面的には宗派対立でも、実は経済的な利権争いであることも多い。 スンニ派の王室が支配するサウジアラビアでは東部の油田地帯にシーア派が多く暮らすが、経済的に冷遇されていると不満をくすぶらせている。 イラクではフセイン政権の崩壊で多数派のシーア派が政権を握った。 利権を失ったスンニ派旧支配層が過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭に手を貸したとされる。 Q 対立が戦争に発展した事例もあるのか。 A 1980~88年まで続いたイラン・イラク戦争はシーア派のイランによるイスラム革命の影響が及ぶことを恐れたサウジなどの湾岸諸国が当時はスンニ派政権だったイラクを後押しする構図だった。 現在進行中のイエメンやシリアの内戦も、中東地域の覇権を巡る代理戦争の様相を呈している。

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フセイン政権が崩壊した後、なぜイラクは復興できないでいるのか?

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2003年4月11日 金 「しんぶん赤旗」 侵略と抑圧のフセイン政権 崩壊寸前状態と伝えられるフセイン体制は、国内で抑圧と対外侵略を繰り返してきた独裁政権です。 (坂本秀典記者) イラン・イラク戦争 一九七九年七月、イラクの最高権力機関である革命指導評議会の副議長サダム・フセインが、引退したバクル氏の後継者として大統領に就任しました。 イラクは、翌一九八〇年九月、イランにたいし国境確定条約を破棄して攻撃を仕掛けました。 パーレビ王政が崩壊した後のイランの混乱に乗じ、中東地域で支配権を確立することがねらいでした。 両国の戦争は、八八年まで八年間も続き、国民の生命と経済を疲弊させました。 米国はこの間、敵対的なイランの「イスラム革命」の影響を抑える目的でフセイン政権を支援しました。 クウェート侵略 フセイン政権は、イランとの戦争が終わった二年後の九〇年八月、今度は南の隣国クウェートを侵略、油田が豊富な同国を併合しようとしました。 しかし、国連安保理は同年十一月、イラクをクウェートから撤退させるため「必要なすべての手段をとる権限」を国連加盟国に与えるとの決議を採択。 翌九一年初め、米軍を主体とする多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が行われ、敗北したイラクはクウェートから撤退させられました。 その結果、イラクは原油輸出禁止などの経済制裁を受け、国連機関による大量破壊兵器一掃のための査察も繰り返されてきました。 弾圧で10万人が犠牲か フセイン体制のもとでは、石油輸出による資金などで貧困対策が行われましたが、他方、同大統領への個人崇拝が強制され、張り巡らされた軍事・秘密警察組織を通じて国民の一切の市民的な自由が奪われました。 同政権は、親族やフセインの出身地方の取り巻き幹部で固める一方、共産党の非合法化はじめ、批判者や反対勢力にたいし、粛清や暗殺、弾圧を加えてきました。 八八年には北部の少数民族クルド人に対し、イラン・イラク戦争で「イランを支持した」との理由で毒ガス化学兵器を用いて攻撃、数千人を殺害しています。 湾岸戦争後の九一年三月には、フセイン体制に批判的なシーア派住民が多く住む地域などでの反政府暴動にも残忍な弾圧を加えました。 暴動と報復の弾圧で十万人以上が殺害されたともいわれます。

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